《私の小児歯科人生》
26.泣けた立浪和義選手の引退セレモニー 2009.10.9
私は、いい年をして中日ドラゴンズのファンクラブに入っています。待合室には“神谷省吾さんへ”と書いた立浪和義選手のサインボールと“みどり歯科さんへ”と書いた川上憲伸他多勢の選手が寄せ書きしたサインボールが飾ってあります。私は直接、立浪に会ったことも、話をしたこともありません。ただのファンです。このボールは、TVのCMディレクターをしている長男が仕事で知り合いになった北見輝美さん(マリアナ スタジオ、サイパン)に、もらってもらったものです。私の診療所には、ドラゴンズファンの子供がたくさん来るので、診療中、ドラゴンズの話題で盛り上がることがあります。

写真説明
1枚目:待合室のガブリくんとサインボール 2枚目:ナゴヤドームにて 歩くん(孫)と 3枚目:ファンクラブマスコット(宮崎駿さんがデザイン)
シリーズが始まる前に、今シーズン限りで引退を表明していた中日ドラゴンズの立浪和義選手が、9月30日のナゴヤドーム最後の試合を迎えていました。中日対巨人戦で、巨人は中日に11ゲーム差をつけて、すでに優勝が決まっていました。ですから、この試合は完全に消化試合ですので、スタンドはガラガラだと思っていました。ところが、スタンドは超満員だったのには驚きました。大勢のファンが立浪を見に来ていました。すごい選手です。立浪はファンだけでなく相手チームの選手からも愛されていました。私はこの日、自宅にいて、TVで野球中継を観ていました。アナウンサーは試合よりも立浪のことばかり話していました。少しでも長く立浪を見ていたいという、みんなの気持ちをアナウンサーは代弁しているようでした。残念ながら、野球中継は延長されることなく9回途中で終わってしまい、この後の引退セレモニーを見ることが出来ませんでした。
翌日の中日スポーツ他、各スポーツ紙は立浪の記事を一斉に載せていました。立浪と親交が深いプロゴルファーの塩谷育代さんは、日刊スポーツ紙に特別寄稿され、その中で立浪の優しさを次のように書かれています。
「プロとして尊敬している立浪選手には、別の顔もあります。5年ほど前、私の長男が入院したときに、わざわざ病院までお見舞いに来てくれました。驚いたのは、エレベーターに乗り合わせた見知らぬ女の人に「主人を励ましに部屋まで来ていただけませんか」と声をかけられ、お願いされた通りに違う病棟まで足を運んだのです。その優しさ、その気配りに私は感動しました。」
他にも、立浪の優しい人柄に関しては、選手、評論家、記者など、多くの人が新聞で述べています。その中で、立浪の高校時代からの親友の片岡篤史氏がスポーツニッポンに特別寄稿しているので、以下に載せます。これを読んで私は涙が出ました。
高校時代から輝き通した立浪 片岡篤史氏
ナゴヤドームでは立浪の応援に「燦然(さんぜん)と輝け」という横断幕が出る。立浪は本当に、高校時代から輝き通したと思う。PLの自分たちのキャプテン。4人がプロに進んだが、立浪がもう最後の1人だ。同級生の野球人生が終わると思うと、こみ上げるものがある。
同い年にこんなすごいヤツがいるのかと驚いたのは、入学して初めての紅白戦だ。代打に呼ばれて素振りを2、3回だけで出ていって、2球目に弾丸ライナーの本塁打を打った。寮生活はつらく1年生はみんな屋上で実家のほうを向いて泣いていた。立浪だけがマスコットバットを振っていた。母親1人に育てられ、人に弱みを見せられない境遇だった。「絶対負けへん」と弱音を吐かない強い姿勢で、プロ22年間、故障以外では一度も2軍に落ちなかった。
今の自分があるのは、最上級生にもなってなかなか活躍できずにいた時に、立浪が「一緒に落ち葉を掃こう」と声をかけてくれたおかげだと思っている。午前6時30分起床の45分前から、グラウンドの周りの取っても取ってもなくならない落ち葉を掃いた。打席では「我」や「欲」を出すと失敗する。無心になることを教えてもらって、夏の大会では4番になれた。
もう”時効”だろう。大学時代、中日の寮の立浪の部屋に何度か泊めてもらったことがある。逆に立浪が泊まりに来たこともたびたびで、いろんな話をするうちに「プロ」を強く意識するようになった。日本ハムに入って初めての試合がキャンプ地・名護での中日とのオープン戦。バリバリのレギュラーだった立浪が、本当に輝いて見えた。
初めて野球をやめようと思うほど苦しんだ阪神移籍1年目も、彼がいたから頑張れた。私の引退試合で、めったに見せない涙で送ってくれたことは忘れられない。引退セレモニーという節目だが、まだ終わりじゃないから泣くのはやめた。日本シリーズ第7戦まで進んで、少しでも長く勇姿を見せてもらいたい。(本誌評論家)
この日の試合の雰囲気とか立浪の人柄等に関しては、中日スポーツの兼田康次氏が、うまく書いているので、以下に載せておきます。
プロ初の一塁 巨人6−2中日
最後の最後まで立浪和義はヒーローだった。1度、2度、3度、仲間たちに支えられ、背番号の数だけ中に舞った。
恩師、先輩らに見守られ、笑顔で引退セレモニーを演じていた。3万8280人のファンや関係者、全てが興奮し、感動し、涙した。そんな最高の夜だった。
あまりにも格好いいフィナーレだ。2年ぶりのスタメンは「6番・一塁」。地鳴りのような大歓声と無数のフラッシュに見事に応えていく。2回先頭が右前打、4回2死からは中前打。そして9回無死一塁では巨人・越智の直球を右中間に運んだ。3安打目は何とタイムリー二塁打だ。猛打賞は5打数5安打を記録した06年6月30日の広島戦(ナゴヤドーム)以来、3年ぶり。試合を二塁塁上で終えると、ハイタッチする巨人の選手たちと握手であいさつ。巨人・原監督とは抱擁して笑顔で主役を務めた。
「(9回は)最後の打席だと思ったんで、思い切っていったらたまたま二塁打になって。(歴代トップの)二塁打には縁があったんだなって思いました。きょうはこのような起用をしてくださった監督に感謝しています」
必死だった。26日の練習中に持病の腰痛が悪化。直後は歩くことすらままならない。この日も午前10時に自宅を出発して向かった先はナゴヤドームではなく名古屋市内の病院。打撃練習は5日ぶり。試合前に正式な引退会見に臨んでだが、出場については「何とか出たい」と答えるだけだった。だからこそ落合監督の配慮でプロ入り初の一塁を守ったが、こんなエンディングは誰も予想できなかった。
1987年11月18日、運命のドラフトはたった1人、保健室のテレビで見ていた。南海ではなく、中日がクジを引いたとき、心から喜んだ。あれから22年間、背番号3は輝き続けた。03年には史上30人目通算2000安打を達成。05年には通算二塁打数が歴代トップになった。今年8月8日には安打数で長嶋茂雄氏(元巨人)を抜いて歴代単独7位になった。
立浪和義はドラゴンズの象徴である。だが、王様だったわけじゃない。先輩、後輩に気配りができる。今年3月もそうだった。オープン戦前、レギュラー目前だった藤井にこう話した。「いまは大事な時期だから外に行くな。その代わり、オレが飯に誘ってやる」。これが立浪流の“外出禁止令”。スタッフへの気配りも人一倍だった。9月最後の広島遠征、初戦の夜は打撃投手たちを、2戦目の夜はトレーナー陣を食事に招待した。だから人はついてきた。
「きょうは楽しんで野球をさせていただきました。またいつか皆さんにお会いできるよう、これからの人生、たくさんのことを勉強し一回りも二回りも大きくなって帰ってきたいと思います」。引退セレモニーは終わったが、まだポストシーズンが残っている。恩師である星野元監督(現阪神SD)に引退を報告したとき、こう言われたという。「和義、人をうらやましいと思ったらダメだ。人にうらやましいと思われる人間になれ」。残りのポストシーズンも、ユニホームを脱いだ後も、再び着るときも・・・。立浪和義はきっとぼくらのヒーローであり続ける。 (兼田康次)
立浪は、ほんとうに凄い選手ですね。 私は子どもの頃からのドラゴンズファンで、これまで立浪以上の成績を残して引退した選手、監督を何人か見てきましたが、立浪ほど惜しまれて引退した選手を知りません。誰にでも気配りができて、優しい人柄が誰からも愛されたのでしょう。立浪、ありがとう。
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