■素粒子・宇宙論■
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ケルビンの渦原子仮説

古典物理学による初代スーパーストリング理論

  このページでは、1963年にRobert Sillimanが ISISという科学専門誌に発表した論文(“William Thomson:Smoke Rings and Nineteenth-Century Atomism”, ISIS, 1963, Vol.54, No.178, p.461)をもとに、ケルビン卿の提唱した渦原子仮説の重要性を再認識することにします。アインシュタインの相対性理論が登場する約半世紀前に提唱された彼のモデルは、現在精力的に研究されている統一場理論より約1世紀前に全ての物理法則の統合という野心的な方向性を示した画期的な理論です。そして彼の理論はある意味で初代スーパーストリング理論とも言え、現在のスーパーストリング模型の理論形態との酷似が多く指摘されています。彼のモデルの重要な点は、物質と空間を同一のものとして仮定することで、現行の物理学で定義される遠隔作用という概念無しに全ての物理現象を説明できる可能性を秘めていることにあります。もし仮に、ケルビン卿が現在生きているとしたら、原子レベルではなく、素粒子レベルで渦輪粒子モデルを展開していたかも知れません。

●ケルビン卿の渦原子仮説に関する情報
ケルビン卿の発表原著"On Vortex Atoms" by Lord Kelvin (1867)
"The Ether (Aether) of Space" by Lord Rayleigh and Sir Oliver Lodge (1908)
Nature誌の記事 (1991)
New Scientist誌の記事
Early String Theory


“William Thomson:Smoke Rings and Nineteenth-Century Atomism”

I


kelvin.jpg  1867年2月18日は、ウイリアム・トムソン、後にケルビン卿としてよく知られる科学者が、『渦原子』(Vortex Atoms)という仮説を発表した記念すべき日である。彼はこの論文の中で、概略的ではあるが、流体内の渦運動の理論解明が大幅に前進したことを受けて、ヘルムホルツの渦輪(渦糸の両端が閉じたもの)が原子そのものであることを提唱した。彼の仮説によれば、原子は宇宙空間を満たすエーテルと呼ばれる流体内で発生する特殊な回転運動であり、その局地的な運動モードが「物質」であるという。その後数十年間にもわたり、彼はこの仮説をもとに数学的な裏付けと理論研究を行なった。
 トムソンの渦原子仮説は、少なくとも彼が他界する1年前、すなわち1906年頃まで幾つかのグループによって有望視され研究されてはいたが、彼の死後、J.J.トムソン、アーネスト・ラザフォード、ニールス・ボーアらの目覚ましい業績により、今日では究極理論としての価値を失っている。しかし、彼の研究は歴史上の単なる1ページであったと言うにはあまりにも偉大で、その恒久的価値は認められるべきであろう。彼のミクロの世界を渦運動で記述しようとした試みはいまや跡形もなく消え去ってしまったが、彼の研究により導かれ発展した渦運動の数学理論は、19世紀後半の流体力学の学術領域を広げ、現在その分野の標準的な教科書においても重要な地位にある。この渦原子理論は科学分野を取り扱う歴史学者たちにも別の観点から注目されている。それは、彼の仮説が物質を単なる運動モードと位置付けたことであり、通常我々が言う古典力学も、常にビリヤード的な衝突運動や物質とエネルギーを完全に区別するだけのものではなかったということである。そういった意味では、20世紀の物理学上の革命と呼ばれる発見も我々が信じている程革命的なものとは言えないであろう。19世紀における科学の特徴と方向性をいろいろな観点から検証する上でも、彼の仮説は大変重要である。ここでは彼の仮説に至るまでの歴史的背景、彼の声明、仮説が齎す意味を取り挙げることで、トムソンの幅広い視野にたった思考及び業績について振り返ることにしよう。

II


 トムソン自身が認めたように、彼の原子模型はハーマン・フォン・ヘルムホルツの研究成果にヒントを得ていた。より正確に言えば、彼の閃きの根源は1858年にCrelle’s Journal誌にこの偉大なドイツ人物理学者が発表した流体力学に関する先駆的な研究にある。勿論、流体運動に関する数学理論は18世紀及び19世紀前半にレオナード・オイラーやジョセフ・ルイス・ラグランジュらによって構築されたものの、それらの理論の多くは微分方程式の形式を取っていたために難解であったことと、いわゆる渦なし運動に関するものであった。従って、渦運動に関する問題は全くの未解決で、ヘルムホルツはそこに着目したわけである。彼の発見は予想外のもので全く非凡な成果を齎した。
 数学形式に沿ったこの理論解明は、均一で非圧縮、更には無抵抗のいわゆる理想的な完全流体を想定し、渦線と呼ばれる概念を生んだのである。今、ある点(x,y,z)における 流体の速度成分をu、v、wとすると、その点における回転速度成分α、β、γは
α=dv/dz-dw/dy, β=dw/dx-du/dz, γ=du/dy-dv/dx

で表わされる。流体の回転軸はこの回転速度ベクトルに平行で、その大きさをωとする。又、曲線sの全ての点上において
(1/α)dx/ds=(1/β)dy/ds=(1/γ)dz/ds=1/ω

が成り立つ場合、この線を渦線と呼び、その曲線の方向と回転軸とは全ての点で一致する。今仮に、このような曲線がある無限に小さな閉曲線の全ての点を通り抜ける時、これらの渦線が作る管を渦管又は渦糸と呼ぶ。これらについての詳しい定義や数学公式はさておき、ヘルムホルツは一連の定理において、無限に広がる完全流体の中では渦糸自身が閉じたリングを形成し、その渦輪がある特定の回転及び移動のルールに従って崩壊も減衰もしないことを証明したのである。
 ヘルムホルツは又、渦輪が自然界にも存在し、─例えば液体の表面を円盤やスプーンが通過する時のように─、実際にそれらの物理的特徴は彼の与えた数学理論に従うことを指摘した。しかしながら、この渦理論をよりドラマチックに演出する方法がスコットランド人物理学者によって齎されたのである。
 1867年1月中旬のある日、ピーター・ガスリー・テイトはエジンバラの彼の教室で、ある簡単な実験器材を持ち込み、煙の輪を生成したのである。彼の実験では、ある適当な角度におかれた二つの箱から煙の輪が各々排出され、それら二つのリングが大変奇妙な行動をすることが目撃された。 それは、二つのリングを同一線上及び同一方向にリング面に垂直に進行させた場合、前方のリングはその半径を増しながら減速し、反対に後方のリングは小さくなりながら加速することがわかる。そして、後方のリングが前方のリングを追い越す時、その現象は逆転し、繰り返されるのである。一方、二つのリングを反対方向から互いに接近させる時、双方のリングは次第に大きさを増しながら減速し、しかしながらお互いに接触することはない。 更に、この二つのリングをある適当な角度で接近させると双方は見合わせ、その後激しく振動するのである。これと同様に重要なことは、煙のリングがいかなるナイフによる分割の試みに対しても安定なことである。いかに鋭くナイフによる切り込みを試みても、リングは単にナイフを避けるか、この鋭利な刃物の周りで揺れるだけである。この実験は渦理論を実証することになり、しばしば繰り返し行われた。しかしながら、この演出は一人の重要な目撃者、ウイリアム・トムソンのために設定されたもので、彼に大きな衝撃を与えたのである。グラスゴーで自然哲学(科学)の学部長であったトムソンは大いに感激し、ヘルムホルツの研究論文を再び読み返し、渦運動についての研究を引き継ぐことになった。 そして1カ月後、彼は渦原子に関する論文を発表したのである。
(渦輪の衝突実験の動画例は、ここを参照。)

III


 トムソンの原子や物質に対する関心は、ある意味で物理学全般に対する非常に豊富で活発な探究心を刺激した事柄の一つであったことは容易に想像がつく。しかし、実際はこの関心そのものが彼の全ての論理的思考の基本であったと言うべきである。彼の1840年代に始まる科学者としてのキャリアから20世紀前半の10年間に至るまで、彼の論文の多くが物質とエーテルとの関連性についての理論、提言、そして憶測で満ちていた。こういった必要なまでの関心の裏には、原子レベルでの究極的力学の理解が全ての自然現象の解明を可能にするという信念があった。テイトとの共著で出版された教科書にも明記されているように、彼の立場は「物質とそれらに作用する力に関して十分な理解が得られなければ、物理学上のいかなる問題に対しても正確な数学的根拠を与えることは不可能」ということである。彼の原子レベルの見識は、個々の現象についてだけでなく、むしろ彼にとって特に重要であった電気、磁気、光に見られる相関において主要な物理要因を明確にしたいという願望に支配されていた。この相関性に対する真の答えは自然界の全ての力、更には物質と空間の究極的特性の根底に潜むある共通の事象により齎されるということである。そして、トムソンの最終的な目標は「物理学の全体像が“dynamical(動力学的)”な関係で結ばれた物質の特性によって説明できる偉大な系図」を作り出すことだった。
 “dynamical(動力学的)”という表現は、あたかもトムソンの物質理論の重要な要素を構成し、かつ科学全般における統一的概念と密接に関わっているかのように、彼の研究の中でよく使用されている。というよりも、トムソンだけでなく英国の著名な数学物理学者たちは物理学と力学を同等とみなし、更には全ての物理現象を限りなく運動及び衝突の法則によって簡素化する傾向にあったと言っても過言ではない。事実、トムソンの場合にも物理理論がしばしばバネ、滑車、更にははずみ車による簡単な機械仕掛けのモデルに置き換えられることがあった。彼はこのようなモデルを使用して、全ての物理現象の特性を再現することのできる可動部品の配置を発見しようとしたのである─「『我々がある特定の現象について理解しているか?』の検証は、『我々がその現象に対応する力学的なモデルを作り出すことができるか?』ということであろう」─。 トムソンの思考において、このような動力学的モデルの導入は不可欠であり、そのため彼はマックスウェルの光に関する電磁気理論を完全に受け入れることができなかった─「私は光の電磁気理論の正当性を確信しており、電気、磁気、そして光の個々の現象を理解することで、それら全ての現象を統一的に検証することが可能であると信じる。しかしながら私は、光の本質を理解する上でそれ以上に不可解な事柄を導入することなく、出来る限り力学的に解釈することが必要であると考える。それが、私が単純な力学を使用する理由であり、そのような基本的な力学を導入することではじめてモデルを確立することができる。しかし、現行の電磁気学ではそのようなモデルを見い出すことはできない」─。トムソンが煙の輪のデモンストレーションを目撃した時から、彼の科学的解釈の基本は、原子レベルの考察、更には原子理論を含めた全ての物理理論に対応する力学モデルの構築に向けられていたのである。

IV


渦原子理論の発表以前、原子又は究極粒子は化学と気体運動論の二つの分野で重要な役割を果たしていた。まず前者の化学分野では、元素の倍数比例則から原子が仮定され、それらの原子量を確定することに精力が注がれた。一方、後者の気体運動論では、圧力、体積、及び温度などの環境変化による気体の性質から、弾性的な粒子の存在が指摘されるようになり、それらの速度や質量について研究がなされていた。しかし、いずれの研究分野も、物質の本質を表わす新しい総合的理論の開拓には至らなかった。それは1860年代、これらの粒子に対する憶測が常に過去に構築された二つの理論(すなわち、ルクレチウスによって継承されルネッサンス後期に再生されたデモクラテスの古代理論及び18世紀の聖職者ロジャー・ボスコビッチの提唱した理論)に支配されていたからである。
 これらの古典理論では、原子は真空を移動する硬い弾性物体と考えられ、その考えは気体の特性を理解する上で非常に有効であったことから、当時の研究の主流であった。しかしそれらの古典論は、トムソンの観点から言えば、概念的にも貧弱で原子の本質を何も理解できないことから、あまり奨励できるものではなかった。渦原子理論に関する最初の論文でも言及されていたように、彼はルクレチウスの原子を支持する学者たちが実際の特性をそのまま原子の性質として取り扱うことに異論があった。「ルクレチウスの原子は、実際の原子の性質が付与されない限り、物質の特徴を何も説明することができない。従って、俗に言う『原子の衝突』も気体の弾性的性質を説明するためにルクレチウス支持派によって提唱されたものであり、その他全ての物質の特性を説明する際も同様に特殊な力の存在を仮定しなくてはならい」。そして又、それらの原子に振動という特性を持たせない限り、実際のスペクトラムの分析結果を説明することができなかった。
 ヘルムホルツの研究論文の一世紀前に発表されたボスコビッチの著書Theoria Philosophiae Naturalisの中で、原子は最小の点として描像され、それらの間に働く力の特徴は、同一点において斥力、その近傍では斥力及び引力が混在し、そしてある一定の距離以上では距離の二乗に反比例する引力というものである。18世紀、ボスコビッチの理論は特にニュートン指向の強い英国において幅広く支持されていた。又、19世紀にもなると、ルクレチウス理論の代替理論として、更には多くの理論が技巧的な仮説を追加することでしか適応できなかった電磁気現象を説明しうる理論として重要な地位を占めていた。トムソンの渦原子に関する論文の中では、ボスコビッチ理論に対して全く言及はされていなかったが、同時期に執筆された彼のその他の論文から特に批判的であった様子は見受けられない。事実、彼は後年渦原子に対する熱意を喪失した反面、ボスコビッチ理論の発展のために精力的に研究を行うこととなる。ともあれ、当時の原子論に満足せず、全ての物理現象を分子レベルの力学モデルで説明することに主眼を置いていたトムソンは、奇抜なアイデアにより物質と空間を明確に分離する一般的解釈を捨て去る用意があった。
 19世紀の物理学で興味深いことは、エーテル仮説がトムソンの原子模型における焦点を明確にしていたことだ。具体的には、彼の目的の一つが遠隔作用の本質を見抜くことであった。その遠隔作用、すなわち物体が離れた場所に位置する他の物体に作用することが概念的に許容できるものではなかったことから、満足のいく究極理論は物質のみならず、それらを媒体する空間についても説明できる必要があった。特に光現象に関しては、空間が全くの真空で物理的特性を保有していないとは言えず、むしろ何らかの検証されるべき性質があると考えられた。エーテルと質量を有する物質との作用が考慮される度に、通常の物質の解釈や物質と空間の相違も不鮮明になる傾向にあった。それは、マイケル・ファラデーが電気伝導性に対して以上のような古典論を使用しても明快な説明が得られなかったことから、結局彼はボスコビッチ原子のような、ある意味で物質と空間の境界を効果的に排除することのできる原子を主張するに至った。

現在のところ、物質の構成についての見識は次のようなものではなかろうか。 物質は空間全体、又は少なくとも太陽系を含めた重力の作用する空間内に広がっており、重力はむしろ物質を構成する空間そのものの力である。この場合、物質は相互に貫通することもなく、太陽系全体にも広がりを持ち、しかしながらその力の中心が存在している。
おそらく、これらの考察がトムソンをエーテル中心の理論構築に傾斜させていったのであろう。
 光の波動理論が確立して以降、エーテルは科学探究の中心に位置していたが、ヘルムホルツの論文でも明らかなように、デカルト学派の消滅後も渦運動に対する興味が忘れ去られることはなかった。


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