2004年12月、50年続いた(長い休止期間もあったが)、ゴジラシリーズが幕を閉じる。その理由として、ゴジラを表現する技術に限界が来たため、また、子供たちが求めるモンスターの形態が変わってしまったなどが挙げられるようですが、ぼくは、ゴジラや、その仲間たちの怪獣が、子供たちが扱うメディアにうまく入りこめなかったのが理由ではないかと感じます。とはいえ、ゴジラが本来持っている、ライブ感ある破壊シーンなどが、ゲームやアニメで表現できたとしても、はたして、それが、ゴジラの魅力を十分発揮できるのかというと疑問なところもありますが(とはいえ、一度、ゴジラ・アニメーションは観てみたいです)。ともかく、ゴジラは、ぼくらの前から姿を消します。そこで、ぼくなりに、いままでのゴジラシリーズの感想、思いでのようなものを作品ごとにまとめてみようというのが、今回の企画です。
・ゴジラ(1954)
いうまでもなく、ゴジラシリーズの原点、ゴジラというキャラクターが、この世にデビューした記念すべき作品です。ぼくは、この作品は、小学2〜3年生の頃に、NHKで放送されたものを見たのが最初でした。その当時、ゴジラというものは、宇宙からやってくる悪い怪獣から地球を守ってくれる、スーパーヒーロー的な存在で、感覚的には”大きくて頼りになるお父さん”というイメージでした。また、ピンチになると、仲間の怪獣が現れて助けてくれる、”クラスメートの人気者”という明るいイメージもありました。ところが、この初代ゴジラ、いつまでたっても改心しないし、それどころか東京の街を再起不能と思われるくらい、めちゃめちゃに破壊してしまいました。目つきも、死んだ魚ような感じだったし、なんといっても、口元が笑っているように見えるのが、とても怖かったのが印象に残ってます。そして、衝撃的だったのがラストです。いままで友達だと思っていたゴジラが、実はとんでもない極悪人で、不死身だと思っていた強靱な肉体が、海の底でドロドロに溶けてしまい骨になってしまったのです。小学生のころ、ゴジラが大好きだったぼくが、自分の目を疑ったのは言うまでもありません。こんな状態だったので、この映画が言わんとしている、戦争のテーマ、人間が産みだす破壊兵器のテーマなどは、ずいぶん後になってから理解したと思います。
ぼくが、産まれたのは、昭和36年。小学校に入学し、怪獣映画を楽しむようになったのは、昭和40年以降です。まさに、怪獣ブームどまんなか世代です。気がつけば、テレビでも怪獣が大暴れしていて、ぼくらの世代は”ウルトラ世代”と言うそうです。世の中も、高度成長の波に乗り、まさに、ウルトラな未来を夢見て、貧しくとも気持ち的には前へ前へと進んでいく、そんないきおいのある時代だったと思います。もちろん、ぼくは、その当時、戦争という暗い体験もしていないわけで、ゴジラが産まれたバックボーンなど理解しようもありませんでした。初代ゴジラは、そんな、ぼくにとって未知の戦争というものの影を重くひきずって現れたのです。戦争は終わったけれども、その影を忘れてはいけない、というメッセージを持って現れたのです。初代ゴジラの死んだ魚のような目は、ゴジラは、戦争によって”既に死んでいた”存在であることを意味し、死の世界からメッセージを運んできたというようにも思えます。戦争で、命を落とすということは、こういうことなんだ、と、口から熱線を吐き、人々を焼き尽くし、そのメッセージに、もういちど、釘を刺しに来たのです。また、ぼくらのような、戦争未体験世代に対しても同じく・・・。初代ゴジラが、他のゴジラと大きく違う部分は、この、ゴジラ自身が”メッセージを運んで来た”という部分です。そして、初代ゴジラは、地上に生き残ったもう一つのゴジラ、芹沢博士によってその生命を断たれます。つまり、過去の戦争、未来の戦争の戦いです。芹沢博士の開発した「オキシジェン・デストロイヤー」は、未来戦争の兵器の象徴です。むろん、高度に発達した未来の兵器は、過去に産みだされた兵器を凌駕します。ODが勝利するのは、当然といえば当然です。しかし、この2つの戦争を封じるには、2つのゴジラの死でしか達せられませんでした。死を乗り越える戦争の集結は、やはりありえないのでしょうか。
・キングコング対ゴジラ(1962)
「キングコング対ゴジラ」!このタイトルだけを聞いても、わくわくしませんか?世界の怪獣スター(キングコングを”怪獣”と呼んでいいのかどうかは、ぼくにはわかりませんが、少なくとも、東宝キングコングは紛れもなく”怪獣”です)キングコングとゴジラが戦う!まさに、夢の対決です。アメリカが産んだ、スーパーモンスターと、日本が産んだ怪獣の対決という構図は、日本がアメリカと対等の位置に立てるという余裕の気持ちの表れなのでしょうか?ここで、ゴジラは、既に世界に羽ばたいています。(しかし、冷静に見れば、ゴジラというモンスターを退治するために、アメリカの力を借りるという解釈もできます。これも、日本とアメリカの位置関係の表れなのでしょうか?)しかし、いくら、モンスターとしてのキングコングが怪力の持ち主だとしても、熱線を吐き、すべてをやきつくすゴジラと対等に戦えるわけもありません。映画の成立を考えると、どう考えてもゴジラを弱くしないといけません。実際、初代ゴジラの悪魔的な力から比較すると、なんとなくこれ以降のゴジラは弱くなっていたように思えます。それは、なぜか?と考えると、初代ゴジラは、まさに悪魔、この世の生物ではなかったわけで、人間の物理的攻撃はほとんど受付なかったのですが、しかし、キンゴジの元気で健康的なスタイルは、ミサイルをうければ”痛い!”と感じ、送電線に触れれば”びっくりしたなーもう!”とリアクションする、まさに血の通った”生き物”だからです。キングコングと戦うには、このような、生身の肉体でなくてはいけません。それが、相対的にみると、弱く感じられてしまうのです。しかし、それが、いけないのか?というと、そういうわけでもなく、逆に、実にパワフルで、攻撃的で、キングコングに負けず劣らず人間的な動きをします。生身が持つパワーの表現ですね。あまり度がすぎると、昭和後期にみられる、アイドル怪獣っぽくなってしまう危険性もありますが。ちなみに、ぼくは、造型は、この”キンゴジ”が一番好きです。実際、このキンゴジの横顔がかっこよく見えるようで、他のゴジラシリーズのポスターには、よく、このキンゴジが載っていることが多いです(当然、映画には、別のタイプのゴジラが登場しているのですが)。また、この怪獣対決は、こんどは、キングコングに東宝怪獣に対抗できるように”怪獣超能力”を身につけてもらわなくては勝負になりません。たとえば、目からコングビームを出すとか、口からコング光線を出すとか・・・。そこで、コングが身につけた超能力は、電撃攻撃です。つかんだ物に高電圧を浴びせ、その全てを破壊する(言いすぎかな?)という、かなり”東宝怪獣的な技”です。電気が嫌いなゴジラ(いつのまにか、そういうことになってしまっている・・・)には、うってつけの攻撃法です。これで、ほぼ、互角に戦えます・・・たぶん。
で、実際、ゴジラとキングコング、どっちが勝ったんだ!!
公式には”引き分け”となっていますね。しかし、映画を素直な気持ちで見れば、どう考えても、コングが勝ったようにしか見えません。しかし、怪獣王であるゴジラが、あの、”ただの巨大猿”に負けてほしくない、いや、負けるはずがないと思うのが人情で、どうにか、あの勝負、ゴジラの勝ちと解釈できないか?というのが、ゴジラ者にとって頭を悩ますところであり、また、飽くなき挑戦あり続けるのです。で、ぼくは、ビデオ、LD、DVDを見続け、その可能性の一端をつかむことに成功したので、この場で報告したいと思います。
ゴジラはキングコングに勝っていた!
バトル終盤、ゴジラとコングは、舞台を熱海城へと移します。迫りくるキングコングに対し、ゴジラは熱線によって、その進路を妨害。ゴジラの後ろは崖。下には海が広がっています。ここまで、ゴジラはコングの電撃に押されて追いつめられてしまいました。確かに、ゴジラは、コングを”ただのでかい猿”だと思って、あなどっていたように思えます。つまり本気を出していません。ぼくの信じるゴジラは、熱線の応酬でコングの力を完全に封じることなど朝飯前なのです。やがて、ゴジラとコングは熱海城をはさんで対峙、それもつかの間、熱海城をお互いの力で破壊しはじめたのです。そして、ゴジラとコングは組み合ったまま、海へ落下。その後、コングは浮上、故郷の南の島を目指します。
さて、怪獣バトルにおいて、勝ち負けは、どのような判断でなされるのでしょうか?
1、敵怪獣の生命を奪う。
2、敵怪獣を追い払う(戦意を失わせる)。
3、敵怪獣の行動を封じ、一定期間、その活動を休止させる。
の3パターンが考えられます。パターン1は、アンギラス、へドラ、最近ではメガギラスなど。パターン2は、キングギドラ、ガイガンなどです。キングコングは、パターン2に分類され、ゴジラの攻撃に追払われたと解釈できないでしょうか?いや、ちょっと待ってくれ。それならば、その時のゴジラの位置はどうなっているんだ?という意見も聞かれますが(つまり、ゴジラが勝ったというのなら、ゴジラは崖の上にいなければならない)、つまりゴジラが、リングアウトする瞬間、コングに対しどのような位置にいたのかが問題です。それを心に留め、いまいちどビデオやDVDを見てほしい。ゴジラとコングが崖から落下する瞬間、
ちなみに、この時登場するゴジラの造型スタイルは”モスゴジ”とよばれ、キンゴジ(キングコング対ゴジラに登場するゴジラ)と人気を2分するということは、ゴジラファンの間では常識中の常識。はじめて出会うゴジラファン同士の挨拶は「君は、キンゴジなの?モスゴジなの?」という質問から始まると言っても過言ではありません。実際に、ぼくもそんな挨拶をされたことがあります。このモスゴジも攻撃的な顔つきで、この作品のゴジラは「徹底した悪のゴジラ」というキャラクター設定がされています。が、本当にそうなのでしょうか?映画を見ればわかる通り、名古屋襲撃シーンや、卵をみつけるシーンなど、悪意というより、無邪気さを感じてしまいます。いたずら好きのやんちゃ坊主といえば、わかりやすいでしょうか?まあ、だからといって、悪意がないんだから熱線吐いても大目にみてよ、といかないのが怪獣というものの悲しい性なのですが。この映画の見どころは、成虫モスラとのバトルもそうですが、自衛隊との迫力ある攻防戦も、また見ものです。電撃ネット作戦の「よし!勝てるぞ!」の一言で、ぐっとこぶしに力が入るのですが、それはもうお約束なんですが、電熱線が熱で溶けてしまうなさけなさ・・・。とはいえ、自衛隊との正面きっての戦い(対ゴジラ作戦)は、これ以降、しばらく見られないので、じっくり味わうのが正解です。
ぼくが、この作品を初めてみたのは、やはり小学校低学年の頃にあったテレビ放送だったと思います。東宝チャンピオンまつりや、ドラえもんのび太の恐竜との併映ももちろん見ましたが、正直、あんまり燃えるゴジラ映画ではない印象です。やはりラストのバトルがもりあがりに欠けるというのが致命的です。
・三大怪獣 地球最大の決戦(1965)
まず、怪獣は4頭登場するのにこのタイトル。地球の3大怪獣が、巨大な敵に立ち向かうという意味らしいのですが、正直、ちょっとしっくりいかないですね。リバイバル上映時(チャンピオンまつり)には、「ゴジラ モスラ キングギドラ 地球最大の決戦」と改題され、三大怪獣=ゴジラ、モスラ、キングギドラではないか?と混同されがちですが、ラドンって、やっぱり地味な怪獣なんでしょうか?ちなみに、次回作「怪獣大戦争」もリバイバル時には「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」(かっこいいタイトル!)とされ、「ゴジラ ラドン キングギドラ 怪獣大戦争」とはなりませんでした。かわいそうなラドン・・・。
この作品では、ゴジラの最大のライバルといわれるキングギドラが初登場します。ライバルといっても、昭和のキングギドラはゴジラをはるかにしのぐ超能力とパワーをもっています。実力からいえば、キングギドラが”怪獣王”と呼んでもおかしくないでしょう。この映画は、キングギドラのためにあるといっても過言ではありません。その圧倒的な破壊力と美しさの表現は、怪獣者にとっていつまでも心に残る宝物と言えるでしょう。
ストーリーも超古代金星文明の謎?や、その秘密を握る女王に迫る暗殺団のサスペンスフルなアクション、またいちだんとかわいらしくなったインファント島の小美人の魅力などとあいまって、豪華に、そして重厚に展開されていきます。しかし、後半、モスラ幼虫がゴジラ、ラドンと「会話」することによって、その全てが終わってしまいます・・・。ゴジラが、ラドン、モスラと会話をする・・・。そこには、水爆で生まれた悲劇はみじんも感じられません。
ゴジラは”おれたちの知ったことか!勝手にしやがれい!”と言っています。
確かに、セルジナ公国の人々が全て日本語で会話をしてたり、不自然なところ数多くありますが、ゴジラとラドンがボケたりつっこんだりしているシーンは、子供のころに初めて見たときも唖然とせずにはいられませんでした。とはいえ、正義の怪獣であるゴジラから知ったぼくとしては、ラドン、モスラと力を合わせてキングギドラに戦いを挑む姿は楽しく見ることはできたし、ゴジラを応援する立場になれたことを正直にうれしく思えたものです。平成VSシリーズ、2000以降の新シリーズでは、一貫してゴジラは悪の立場を貫き、撃退されるべき存在となっていたのは、ぼくくらいの年齢で怪獣を楽しむには納得できる設定ではありましたが、地球を守る存在としてのゴジラが一回でも見たかったというのも正直な気持ちです。
この作品を初めて見たのも、やはりテレビ放送です。当時、家庭用ビデオなどない時代だったので、1回の放送を大切にし、頭の中にしっかり録画し、それを忘れないように、次の日、スケッチブックやノートに、そのバトルの様子を画に描いたものです。また、学校でも怪獣仲間(とはいっても、ほとんどの仲間は、その後、怪獣からはあっさり卒業してしまうのだった・・・)の間でも、テレビ放送された怪獣バトルで話題はもりあがったものです。また、想像上での対戦の話題にも華が咲きます。その中でも、キングギドラ対ゼットンでは、どちらが強いのか?で、ずいぶん考えたのもです。ちなみに、ぼくは、キングギドラの方が強いと思ってましたが。その勝敗については、また機会があったら考えてみるのも楽しいかと思います。
・怪獣大戦争(1966)
この作品の見どころのひとつは、やはりゴジラが宇宙に行くということでしょうか。さすが、怪獣王ゴジラ、空気のない(と思われる)X星でも、なんのためらいもなく、キングギドラと戦っています。ラドンも、地球と同じように羽ばたいてます。まあ、怪獣は超能力者でもあるわけですから、空気がないことなど、さして大きな問題ではありません。
ゴジラの話題となると、必ずといっていいほど出てくるのが「空を飛ぶゴジラ」「会話をするゴジラ」「シェーをするゴジラ」の3大ゴジラなのですが、「シェーをするゴジラ」は、この作品で見ることができます。ゴジラは、このシェーがけっこう気にいったのかX星人のコントロールが解けて気を失う直前でもシェーをします。この作品で、もうゴジラは、なんの迷いもなく子供たちにサービスをしてくれます。ゴジラの顔つきも、顔が大きくなり、目もぱっちりして親しみやすさも倍増してきてます。また、この映画のもうひとつの主役X星人も魅力たっぷりです。全身にフィットした黒い宇宙服、目には棒状のシンプルなサングラス、そして頭頂部にピョコと立っているアンテナ。話すときにする、ものすごく妙なジェスチャー。どれもこれもが、とっても変なのですが、そのユニークなスタイルは怪獣ファンの憧れの的でもあるのです。このX星人の弱点が、ある音波であり、X星人撃退の方法が家庭内のラジオから流される、その音波であるというのもおもしろい。つまりは、一般家庭が、地球防衛軍の秘密兵器というわけです。この撃退法が、後に「マーズアタック」に引用されたというのは有名な話しです。
ぼくが、この作品を初めて見たのは、東宝チャンピオンまつりの「怪獣大戦争 キングギドラ対ゴジラ」です。このころは、ビデオやDVDなどはなく、リバイバル上映というものは、まるで新作を見るような新鮮さがありました。もちろん、親に連れていってもらったわけですが、同級生には「怪獣映画を見せてもらえない」と嘆く友人もいて(破壊シーンが教育上良くないと思われていたのでしょうか?)それにくらべたら、なんてぼくは幸せなんだろう、と思ったりもしました。まあ、そういうぼくですが、その頃(小学生中学年)寝ても覚めても怪獣だ、ウルトラマンだと言っていたのに、親もさすがにあきれてしまったのか、「怪獣ばかり見るな!」ということで、連れて行かれたのが東映まんがまつりで、人魚姫とかおやゆびひめとかをしばらく見せられてしまった記憶もあります。(なので、リバイバル地球最大の決戦や、メガロは見せてもらえませんでした。)しかし、骨のズイまで怪獣が染み付いてしまったぼくが、王子様とお姫さまの退屈な恋愛ものに満足するわけもありません。もちろん、すぐに怪獣界に引き戻されてしまったのは言うまでもありません。
・怪獣総進撃(1968)
この映画は、ぼくが産まれて始めて映画館で映画を観た作品で、ぼくの怪獣人生の中でも、印象深く、又、重要なポジションにある作品といってもいいでしょう。
この映画のすごいことは、なんといっても、11大怪獣登場というところです。と、当時、思っていたのですが、後にビデオが発売になったり、リバイバル上映のイベントなどで見返してみると、どうにも登場怪獣の数が合わない。それもそのはず、バラン、バラゴンは、最終シーンのみに登場していたり、(バランにいたっては、吊り人形・・・)破壊、対決シーンには現れません。そのかわり、圧倒的破壊力をもつ、ナゾの怪獣、ファイヤードラゴンが登場します。このファイヤードラゴンは昔の怪獣図鑑や、ソフビ人形でも紹介されていない、レアなモンスターです(その正体は、映画で御確認ください・・・)。しかし、ソフビ人形にしても欲しがる怪獣ファンはいないかもしれませんが。ともかく、多くの人気怪獣が登場し、なんと世界中の大都市を破壊していくのは圧巻だし、”怪獣は日本にしか現れない”というジンクスに挑戦してくれています。資料などを読むと、この怪獣総進撃をもって怪獣シリーズを終わらせるねらいもあったようで、まさにゴジラシリーズの最終回的な雰囲気をもった作品です。怪獣たちと、人間たちの平和な共存を思わせる最終シーンは、怪獣映画に親しんでいたファンたちは、怪獣たちを愛おしく思うこと間違いない感動的なものに仕上がっています。ただ、ぼくが、同時に感じたことは、なにか悲しそうな伊福部昭氏の音楽が”滅びゆく者”への 鎮魂歌のように思え、いつまでも胸に余韻を残すものになっているのです。
しかし、この映画の主役は、そんな怪獣たちではありません。月ロケット、ムーンライトSY−3号の冒険の映画いっても過言ではないでしょう。その姿は、サンダーバード1号のような可変翼をもち、垂直デルタ翼や、ジェット噴射口付近の移動用キャタピラなどのギミック、流れるような直線的フォルムなど、魅力に溢れたものになっています。映画のラスト、ファイヤードラゴン対SY−3の対決は手に汗にぎるスピード感ある迫力シーンに仕上がっていると思います。
また、この時に登場した総進撃ゴジとよばれるゴジラのスタイルは、この後、3作品に流用され、この頃の怪獣ブームを支えたゴジラのスタンダードとして多くの怪獣ファンの心に残るものになっているでしょう。この作品を観たのが、小学校低学年。映画を観たあと、怪獣図鑑をさっそく買ってもらい、各怪獣の身長、体重、出身地、必殺技などを暗記するほどに研究したものです。これは、今の”ポケモン”そのものですね。しかし、当時、ゲーム機などないわけですから、怪獣人形を机に並べ想像の中で勝敗を決めていたものです。それが、ぼくの、”怪獣ごっこ”でした。
・ゴジラ対ヘドラ(1971)
そのヘドラの姿を、ポスターで見たときの衝撃は、今でも鮮明に思い出すことができます。いままでのかっこいい東宝怪獣と違い、醜悪なデザイン、全身がゼラチン状に被われているような汚らしい皮膚感。そして、縦に裂けた狂気に満ちた目。どれもこれもが、インパクト十分なものです。また、公開当時、まんが雑誌にも掲載され、その中のゴジラは、ヘドラの溶解物質によって左手が完全に白骨化していたという強烈な表現。実際の映画では、さすがに骨がむき出しという感じではなかったのですが、片目をつぶされたり、ヘドロの池に沈められたりと、いままでのゴジラの戦いに比べ、かなりの苦戦を強いられた相手ではなかったでしょうか?そのすさまじいバトルが、あまりにも残酷だったのか、平成シリーズを含めても、あれほどゴジラが痛めつけられる作品はなかったように思えます。
また、近年、ビデオで見返して思うことは、この映画は、ほとんど子供を意識していないのではないか?と思われるシーンも数多く見ることができます。まず、人間白骨化のシーン。ヘドラが放出するスモッグを浴びると、なんと人間の皮膚が溶けてしまうのです。まるで「怪奇大作戦」です。いま見ても、ホラー映画として通用するのではないでしょうか?怪獣以外の描写もかなりアダルトなものがあります。ボディペインティングで踊り歌うヒロイン。怪しい酒をかっくらって、幻覚を見る主役的な青年。自分たちの将来を悲観して、ヤケになって、富士の裾野でもやっぱり踊り狂う若者たち。それを、草むらの陰から死んだような目つきでみつめる老人たち。どうも、登場人物のほとんどが、生きていく生命力というよりも、滅亡にむかって、がむしゃらに走っていくような、そんな姿勢すら感じてしまいます。これが、子供が楽しむ「東宝チャンピオンまつり」で公開されるというのが、当時のすごいところでもあり、むちゃくちゃなところなのかもしれません。 そして、ゴジラもなにを勘違いしたのか、この映画で空を飛んでしまいます。たぶん、高速で移動できるガメラに対抗したものなのかもしれませんが、どう見ても、タツノオトシゴが後ろ向きに泳いでいるようにしか見えません。しかし、せっかく体得した強力な飛行技ですが、この作品以降、使用されることはありません。まあ、いまでも、ゴジラが空を飛んでいたら、ぼくも、ゴジラのサイトは開いてなかったと思いますし(^^)
また、怪獣映画のパターンとして、怪獣を退治するのはあくまでも人間。人間がつくり出す超兵器や、根性(?)などが、最終的にゴジラをはじめ、怪獣たちを駆逐してきました。しかし、この「ゴジラ対ヘドラ」に登場する防衛軍は、まるで役に立たない。ヘドラが乾燥に弱いことをつきとめ、巨大な鉄板を立てそこの間に電磁波を起こしヘドラを乾燥させる(電子レンジというわけですな)作戦を立てたまではよかったのですが、肝心の電力が弱くて満足な攻撃ができなかったり、電線が切られたり、どうもいつもの東宝自衛隊らしくない。あくまでも、人間は自分が生み出した怪物たちの罰を受けなくてはいけないという立場に徹しなくてはいけないかのように。フラフラになりならがらも、最後の一撃をくらわせ、ヘドラを倒したゴジラが、ふと、人間達に向かって投げかける視線が、また、印象的です。一瞬ですが、全てを伝える強烈な説教です。ぼくたちは、”あのころの公害”に慣れてしまったのでしょうか?忘れているわけではないのでしょうが、また、新たな公害を怪獣として表現することこそ、怪獣映画の使命のような気もします。
・ゴジラ(1984)
「メカゴジラの逆襲」から、実に9年後、ようやく新しいゴジラが復活しました。その間、ハリウッドでは、本格宇宙SFシリーズの大ブームで「未知との遭遇」「スターウオーズ」「エイリアン」「スタートレック」「ブラックホール」「フラッシュゴードン」・・・日本の特撮はというと、「スターウオーズ」に対抗して急遽製作された「惑星大戦争」「宇宙からのメッセージ」、ハードSFを目指した「さよならジュピター」など、正直、ハリウッド作品群と並べて語るには、寂しい気持ちになるようなものばかりで、その寂しさを払拭させるには、日本が産んだ栄光の特撮スター”ゴジラ”に、いまいちど立ち上がってもらわなくてはならなかったのです。ハリウッドの本格宇宙SFと同じ土俵で勝負するのをあっさりとあきらめ(?)、日本の得意分野”怪獣”でハリウッドに挑む、という発想は、正しい選択、といおうか、それしかないわけで・・・とはいえ、子供の頃に怪獣映画で育った”怪獣者”としては、いやおうなく期待が高まるのは当然のことであります。
ゴジラ不在の9年間というのは、怪獣ファンにとって、冬の時代と言われてますが、実際のところ、”冬”だったのでしょうか?僕自身は、再び現れるであろうゴジラに対し、想像をふくらませ、自分の中のゴジラ像をあたため楽しんだ時代でもありました。又、当時では、数少ない資料を集めたり、今のファン活動の礎を築いた同人の上映会などにでかけたり、まるで、宝物を探しにいくような感覚は、とても胸踊る体験だったと思います。この時代をどのように怪獣とつきあったかが、今でも、怪獣を志す者にとって、ステイタスのようなものであるといっても過言ではないでしょう。そんな、ゴジラ不在の時代こそ、ある意味、一番楽しくゴジラを楽しめた時期だったのではないかとさえ思います。
多くの資料にも書かれている通り、84ゴジラは、過去の水爆実験の影響で出現したという設定が生かされているのに加え、未来の核ミサイル戦争への恐れをテーマにした作品です。ゴジラに対し、核ミサイルを撃ちこんで退治しようとする荒技も表現されています。又、ゴジラそのものを核の象徴として描くため、ゴジラの生命活動の源が核エネルギーだという、これまた荒技も披露してくれます。もう、この時点で、ゴジラは生物じゃなくなっています。確かに分りやすく、ゴジラの強さを他のものと比較するには、もってこいの表現ですが、僕は、ちょっとやりすぎではなかったか?と今でも思っています。しかし、それ以降の平成VSシリーズ、2000以降のミレニアムシリーズにおいて、ゴジラの身長、体重が変化することはあっても、”核を食べる”設定は、最終作「ファイナルウォーズ」まではずされることはありませんでした。
また、身長が80メートルにアップし(昭和シリーズでは50メートル)高層ビル群に対抗できるようにしたようですが、やはり、画として、新宿西口へ現れたゴジラは、なんとなく檻の中に閉じ込められて窮屈にしている印象は拭えません。まあ、そんな状況でも熱線をバリバリ吐いてビルを次々になぎたおしてくれさえすれば、それでよかったのです。しかし、なにか84ゴジラは元気がありませんでした。なにかに遠慮でもしているかのような(実際、多くの企業に遠慮していたんだと思うけど・・・)キレのないゴジラでした。覇気がない、とでも言うのでしょうか。ゴジラに対する、政治や、国際関係の動向などが、ち密に描かれているのに対し、ちょっと残念な気持ちになりました。とはいえ、決して、嫌いな作品ではありません。再び人類の脅威としての性格設定、また、久々に見る、かっこいい造型、新宿西口高層ビルの驚異のミニチュアセット、スーパーXとの心踊るバトルシーン!見るべきところは、数多くあります。
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