銀座の恋の物語

第1話


加納 夏子(かのう なつこ)。26才。
銀座5丁目に勤めているいわゆるOL。
けれど、OLという響きはあまり好きになれない。
OL=Office Ladyの略らしいが、なんか古臭い。
「夏子」という名前も私は大嫌い。
だって、単に夏に生まれたからという理由でつけたらしいから。
父、ひとり。母、ひとり。
弟、ひとりの典型的な4人家族。
埼玉県の春日部市に住んでいる。

銀座に勤めていると云っても、販売職や事務職ではない。
某有名メーカーのショールームで受付をしている。
受付はショールームにいらしたお客様にニコっと、パンフレット手渡しをするだけ。
もちろん、ある程度の商品説明はするし、新商品も3ヶ月スパンで新しくなるので
覚えるのも結構、たいへん。
お給料は手取りで26万円ぐらい。
1年ごとの契約社員だから、仕事に熱が入っていないと次の年に更新してもらえないので、結構、
真面目に仕事をしている。

拘束時間は朝の10時から夜の6時までと、11時から夜7時までの2つのシフト。
自宅が春日部だから、勤め先の銀座まで、door to doorで、約1時間半も要するから、これもたいへん。
でも、遅い出勤時間だからラッシュアワーをはずれて、座って通勤の日々。
仕事は10時からだけど、30分まえには銀座に到着している。
朝、8時13分の霞ヶ関行きの日比谷線直通電車に乗り、北千住駅を9時に通過、
銀座に9時25分には着く。
電車のなかでは文庫本を読んだり、中釣り広告に目を奪われたり。
思いっきり、熟睡してしまうこともしばしば。
仕事の前には松坂屋デパート裏の「スターバックス」で朝のコーヒーを飲むことを日課にしている。
コーヒーの香りに、自分を埋めつくしていると、しあわせな時間が過ごせるんだな、これが。

現在、恋人と呼べる彼はいない。
5年も付き合った人がいたが、1年前になんとなく別れた。
結婚を意識したこともあったけれど、「結婚」という言葉をお互い最後まで口にしなかった。
答えが出ない日々に疲れてしまったのかもしれない。
彼が悪いのではない。
きっと、自分が素直になれなかったから。

彼と別れてからは、しばらくはボケーとしていた。
もちろん、仕事は完璧にこなしてはいたけれど。
女友達と海外旅行に行ったり、高校時代からやっていたテニスにも明け暮れた。
けれど、心のなかは、ポッカリと空間があいていた。
彼と別れたことには決して、後悔はしていなかった。
自分が答えを出したことだし、彼も承知したことだから。
けれど、なぜか虚無感が残っていた。
5年という時間が、独りという今を縛りつけているのかもしれない。

このままではいけない!
っと思い、独り暮らしをしようかと思ったが、父親の猛反対にあって、断念。
家を出ようかと思ったが、やめた。
だって、生活が変わっても、心のなかは変わらないから。
心を満たさなければ、それは仮の生活でしかないから。
1年の月日が流れ、
そして、あの人に出会った。

榊 慎一(さかき しんいち)。31才。
銀座7丁目にある、某旅行代理店に勤めている。
この7月までは新宿にある本支店にいた。
新しく銀座に支店を出すということで、異動によりこの銀座にやってきた。
所属は法人販売課。
法人販売課というセクションは字のごとく、会社関係の旅行・チケット販売だ。
まとまると、結構、大きい数字になる部署だ。
役職は一応、課長。部下は男4名、女2名。
新宿支店のときは主任だったから、一応、出世というわけ。
といっても、新宿本支店時代の直属上司に引っ張られてきたおかげでもある。
上司は販売統括部の部長に栄転したくちだ。

住まいは下北沢。
正確にいうと、京王井の頭線・下北沢のひとつ手前の「池ノ上」という駅で降りる。
「池ノ上」という場所を説明するのが面倒なので、ずっと下北沢で通している。
「メゾン池ノ上」という名のマンションだが、このメゾンという響きに皆、騙される。
一度、来たら「これがメゾン?」と、必ず、非難の目を向ける。
学生時代から住んでいるおんぼろアパートだ。
6畳一間、ミニキッチンだけの風呂もない、小さなアパートだ。
しかも、一階が八百屋ときたもんだ。
しかし、駅にも近く(歩いて1分)、銭湯だって3分ぐらいのところにあり、
午前1時まで営業をしている。
だから、不自由もしない。

31才にして、花の独身。
そりゃぁ、31年の長い人生、それなりに恋愛もしてきた。
学生時代に本気で人を愛したが、社会人になって失恋。
これが、ちょっと、尾をひいているかもしれない。
仕事も忙しく、結婚もだんだん面倒になってきている。
とくに身体に欠陥があるとか、変な趣味があるというわけではない。
これでも、結構、もてるほうなのだ。
学生時代から、夏はテニス、冬はスキーと、いっぱしのスポーツマンである。
今はご多分にもれなく、スキューバに魅せられている。
だから、一年中、真っ黒に日焼けしている。
男にとって、結婚は信用とよくいわれる。
わかっているけれど、紙切れ一枚に縛られたくもない。
妥協で結婚をしたくもない。
素敵な女性がいれば、いつか、その気になるかもしれないとは思っている。
けれど、いないんだなぁ、これが....。

しかし、そんな時、アイツに出会った。

第2話

銀座でランチ〜。
聞こえはいいんだけれど、毎日のこととなるとランチの場所も限定されてくるのよね。
4〜5年前は女性スタッフも5〜6人ぐらい居て、わいわい、がやがやといろんなお店に行ったけれど。
俗にいうリストラで、今はぎりぎりの少人数制になってしまった。
だから、お昼もひとりで取ることが多くなってきたって訳。
毎日のことだから、けっこう、頭を悩ませるのよね。
お金を出せば、銀座ですもの、おいしいところはあるわ。
たまには高級ランチも食べるけれど.....。
毎日って訳には、お財布がいくつあっても足りはしない。

今日はどこにしようかなぁ?
あっ、あそこにしようっと。

「十三夜」
4丁目の交差点から歌舞伎座方向に、2本目をまがったところにある。
ちょっと薄暗い雰囲気がいいのよね。
京都出身の店長らしく、味付けも薄味なんだけれど。メニューも女性向きのヘルシー志向かな。
だから、圧倒的に女性のお客さんが多い。
夕方からは居酒屋になるらしい。私は夜、来たことないんだけれど。
ランチは1種類だけ。しかも、この1種類のメニューしかやってない。
黙って座れば、そのランチが出てくるって寸法。

午後1時をまわったのに、あいかわらず、混んでいる。
運良く、テーブル席に座れた〜。良かった。
ひとりの時は、カウンターではちょっと、寂しい。
敬遠したい席なのよね〜。

運ばれてきた薄味の食事に堪能していると、
『相席、よろしいでしょうか?』
背広をきちっと着た30才ぐらいの男性が、声を.....。
『えぇ。かまいませんが.....』
と、私。
日焼けしていて、ちょっと見は、格好いい。

箸を進めていると、向かいの男性が、何かを捜しているみたい。
何を捜しているのかな?
きっと、メニューだわ。
ということは、この店は「はじめて」ということね。

『メニュー、もらえます!?』
あぁ〜あ、お店の人に聞いてしまったわ〜。

すると、お店の人が、
『メニューは無いんです〜。ランチは1種類だけなものですから。
今日のランチは○○○ですが、よろしいですか?』
『あ〜、そうなんですか。ここ、初めてなもので...。それでいいです。よろしくお願いします!』
っと、元気なはっきりとした声。
クス。なんか、おかしい〜ひと。
だって、とっても、丁寧に受け答えするんだもの。
今時、めずらしい好青年って感じね〜!


ふう〜。失敗、失敗。
聞いてなかったものなぁ。メニューがないなんて。
会社の女の子から、
『ちょっと、素敵なランチのお店があるんですよ。榊 課長も行かれてみては?』
って、話を聞いたものだから、7丁目から、わざわざ4丁目まで足を運んで来たんだ。
店を発見して、すぐに飛びこんでしまったからなぁ。
そういえば、外にランチのサンプルがあったみたいだ。
前に座っている女性に、なんか笑われたみたいだなぁ。
おかしかったかな〜?俺の言い方。

けれど、たしかに雰囲気のある店だな!木の柱がむき出しになっていて、テーブルも凝っている。
郷土料理屋さん風だなぁ〜。

おっ、来た。来た。待望のランチが。
どれどれ。おすすめのランチの見た目はどうかな?
おかずはちょっと、少なめの量だなぁ。ご飯も小さめのお茶碗だしな〜。
でも、器の趣味はいいねぇ。盛り付けもお洒落だし。
味はどうかな?んっ、薄味だな。関西風かなぁ?
男性よりも女性向きのお店だな。ここは。
そういえば、お客も女性が多いみたいだ。

ご飯がちょっと、足りないなぁ〜。

『すいません!ご飯のお代わり、出来ます?』
『どうぞ!お代わりは自由ですよ!』

やった〜。
ご飯はOKだ。
味噌汁も大丈夫かな?
『すいません!お味噌汁もお代わり出来ます??』
『お味噌汁はご遠慮くださいね〜。』

ははは、味噌汁は駄目かぁ。
向かいの道路の「さくら水産」のようにはいかないか!

「さくら水産」はご飯だけでなく、味噌汁・生卵・味付き海苔・ふりかけ胡麻・梅干しが
食べ放題で、しかも、500円の税込みである。しかし、つい、お代わりを頼んでしまい、
食べ過ぎるという難点が生じるので、あまり、おすすめはしない。(爆)


おもしろい人!
ご飯はわかるけれど、お味噌汁もだなんて......。

けれど、なぜか、さわやか!!

続けて、失敗してしまった!
また、前の女性に笑われてしまったみたいだなぁ〜。
ふぅ〜。おかわりも出来て、お腹もいっぱいになったし、行こうかなぁ〜。
伝票は?どこかな?

また、何か捜しているわ。この人。
今度は何かしら?
『なにか、お捜しですか?』
つい、聞いちゃった。
『はい。伝票がないなぁっと、思って。捜しているんですけれど...。あなたには伝票来てます?』
『いいえ。ここは、伝票がこないんです。だって、ランチは1種類だから...。金額も決まってますでしょ』
『あっ、そうか。考えてみれば、そうですよね。ハハハ。
教えてくれて、どうも、ありがとう。お店の人にまた、聞くところでしたよ〜。
では、お先に失礼!!』

あら〜。なんて、気がはやい人なんだろう。

食後のコーヒーも飲まないなんて。
ここのランチにはコーヒーが付くのに........。


そして、これが、彼との最初の出会いだった。


第3話

慎一が銀座に転勤してから、はや1ヶ月が過ぎ、仕事も順調に推移している。
知らない街に溶け込むには、やはり、まず、歩き回ることである。
昼のランチでもそうである。
いっぱしの常連になれる店を彼は開発していった。

利助
5丁目の銀座コアの後ろにあたるのだろうか?
いいや、「鈴木そのこ」のTOKINOのビルの後ろにあるとの表現が適切であろう。
牛たん焼きのお店。
もちろん、居酒屋なのだが昼はランチ定食がある。
「たんシチュウ」が800円。「牛たん定食」が1,000円だ。
テーブルが4セット12脚。カウンター席が6脚というこじんまりとし店構えである。
しかし、親父さんの笑顔がいいなだなぁ。これが!
短かめの白髪頭に汗をかきながら、牛たんを焼いている。
また、優しい声で「いらっしゃい!」「ありがとうございました」と、挨拶が返ってくる。

週に2度は顔を出しているので、顔なじみになった。
きょうはカウンター席がいっぱいだったので、テーブル席に座る。
ほんとうはカウンター席が好きである。
いつも、ランチを取る時はひとりが多いので、相席にならず、気兼ねしなくて済むからである。
『いらっしゃい!まいど!きょうは何にする?』
と、親父さんの明るい声。
『そうだね〜。この間はシチューだったからきょうは牛たんでいいや!』
『はいよ!』

ここの売りはもちろん、牛たんだが、ご飯もいける。
麦飯なのだ。なんと健康的だ。
しかも、お替わりが自由。
ほかにたっぷりのスープと、サラダがつく。
牛たんは大きめなのが4枚ぐらい皿にのってくる。
柔らかくて、うまいんだなぁ。

そんなこんなでこの店は繁盛している。
日産ギャラリーのコンパニオン嬢も御用達という店だ。
しかし、それらしき女性にあったことはない!
ひとりテーブル席に座っていると、すぐに相席になってしまうのが難点というくらいの繁盛ぶりだ。
まっ、お店が小さいから仕方がないか?!

食べ終わって、熱いお茶でのどを潤していると
2人連れのお客が入ってきたようだ。
店のドアに背中を向けているので、よくわからないのだが....。

『いっぱいなんだぁ〜。どうする?典子。』
『ほかに行く?』

典子は夏子の同僚なのである。
きょうは勤務シフトが3人体勢だったので、仲の良い典子とランチを取ることになったのであった。

『親父さん、俺、もう終わるから出るよ!』
『そうかい、悪いね〜。
 お嬢さんたち!そこのテーブル席、今、空くよ〜!』

『よかったね。夏子。
 すみません!無理に席を空けていただいたようで....』
『いいえ、どういたしまして。ちょうど、終わったところなんで。』
『夏子。奥に座って。』

狭い店ですれ違った慎一夏子であった。
まだ、お互いの名前も知らないのだが......。

『あっ!』
『あっ!昨日はどうも。』
『こちらのほうこそ.....。すいません、席。』
『いいえ。じゃ、またぁ。』

『なになに。夏子!知り合いなの?
 なかなか格好いいじゃない!角におけないわね〜。』
『そんなんじゃないったら〜。昨日、十三夜で相席になっただけなのよ。』
『ふ〜ん。けれど、なんか恋の予感がしない?昨日、今日と、2回の出会い。3度目もあるかもね〜』
『なに、言ってるのよ!
 ランチで相席になったからって、恋をしていたら体がいくつあっても足りないわよ!
 それより、なに頼むのよ〜。あたしはシチューに決定!典子は?』
『あたしもそれでいいわ!』
『すいませ〜ん!シチュー2つ、お願いしま〜す。』

恋の予感か〜。
そんなのあるわけないじゃない。
名前も知らないのに.....。
でも、ちょっと、素敵な人だったかなぁ〜。
なんとなく、胸騒ぎをおぼえる夏子であった。

その頃、利助を出た慎一

ふたりともなかなかの美人だったなぁ。
春子?夏子?秋子?冬子?
四季折々。
のりこ?だったかな。
どっちがどっちだったかな?
昨日、今日、そして明日?
恋の出逢いは偶然に始まった!
なんてことはないか!

ふ〜。9月も中旬なのに残暑厳しき折か〜。
しかし、ここの牛たん焼きは何回食べても、うまいなぁ。

と、脳天気な慎一であった。


第4話

恋愛は不思議である。
この世には男と女しか、存在しない。
なかにはおかまさん、おなべさんもいるが......。
出逢いのチャンスはいくらでもあるのに、恋愛に発展することはごく稀である。
なかにはすぐに発展する人もいるが......。
偶然のチャンスにそっと、手をさしのべればよいのであるが......。

その後、夏子と慎一は出逢う機会がなかった。
おたがいに、数日間は気にはなっていたが、
名前も知らない、2度ほどのランチでちょっと、会話をしただけのふたりには
3度目の偶然など、あるはずもないと思っていた。
そんな思いが心の片隅に追いやられてしまった頃、3度目の偶然は実現するのである。


夏子
は銀座が好きである。
銀座で仕事をしているが、新宿、池袋、渋谷などと違った大人の雰囲気が銀座にはある。
しかし、この1〜2年で、だいぶ様相が変わってきた。
まず、コンビニエンス・ストアができはじめ、コーヒーは喫茶店で飲むものという定義をくつがえすように160円〜180円ぐらいで飲めるコーヒー店が現れ、そしてディスカウントストアも出現した。
コーヒー店に関していえば、銀座のどの通りにも見られるようになった。
なかには軒を並べて、営業をしている店もある。
そして、5丁目の並木通り入口には、あの「マツモトキヨシ」がこの夏に出店をし、10月中旬には
目の前に、「ブーツ」がオープンをした。
「ブーツ」はイギリスでいちばんの出店数を誇るドラッグストアだ。
デパートや老舗と呼ばれるお店はもちろん、健在ではある。
しかし、『銀座』という街がだんだんと渋谷、新宿に飲み込まれ、混沌とした街並に変貌しつつある。

バブルの頃は銀座通りの5丁目付近にはよく、モデルクラブのスカウトがうろうろし、
これはという女性に近づいては名刺を配っていた。
夏子も高校・短大時代、銀座に遊びに来ると、何十枚もの名刺を手にした女性のひとりであった。
身長165cm、スタイルも良く、ひときわ目立っていたからだ。
しかし、美人特有のツンとしたところはなく、夏子のもつその笑顔は、
誰しもを惹き付ける不思議な魅力を兼ね備えていた。

今はそのスカウトたちも消え失せ、化粧品のキャッチセールスが道行く女性を狙っていた。
夏子もかならずと言っていいほど、声をかけられてはいたが、無視をしながら通りすぎた。
ちょっとでも、立ち止まる姿勢を見せたなら、長い口説き文句を聞かなければならないことを
知っていたからだ。
1. 視線を合わせないこと。
2. 立ち止まらないこと。
このふたつが大事なのである。
しかし、敵もさるもの。
『あの〜、有楽町方面はどこでしたっけ?』などと、とぼけて聞いてくるのが常である。

RAY'S慎一が勤める会社の通りを挟んだところにある。
3時までランチをやっていて、夜は夜で、いい雰囲気で飲めるお店である。
会社の近くということで、慎一はよくランチをとり、時には夕食もこのRAY'Sで済ますこともあった。
店のスタッフとも顔見知りとなった頃、慎一は高山氏と出逢ったのである。


高山氏はヒゲをたくわえていたが、そのヒゲから受ける印象とはほど遠いほどの
優しい笑顔を浮かべ、とても丁寧なおじぎをする方であった。
高山氏はここRAY'Sを経営するCEO(最高経営責任者)である。

『ありがとうございました。よく、お見えになっていただいていますが、お近くでいらっしゃいますか?』
『えぇ、通りを挟んだビルにある旅行会社にいるんですよ。』
『そうですか。よろしければ、お名刺を頂戴できますか?』
『いいですよ。』

そんな会話があった数日後、高山氏から電話を頂戴したのである。
「今度、札幌に支店を出すのでちょくちょく飛行機を利用したいのですが、
チケットだけでも予約出来ますか?」との電話であった。
もちろん、旅行会社であるからチケット予約もOKだ。
慎一は法人販売課であるが、1枚のチケットが大きな商売に育つことがあることを充分知っているのである。

この札幌行きのチケットが縁で、その後、高山氏と親しくおつき合いをさせていただくようになった。
高山氏は学生時代は野球をやられていたとのことで、りっぱな体格をしている。
顔だちからは35、6ぐらいの年齢に見えるが、実際は40に手が届く年令らしいのだが....。
そして、いつもピシっとしたスーツを着こなしていた。

高山氏は服装には一目を置いていた。
人と人とが出逢う時、、最初の印象は服装で決まるというのである。
もちろん、服装よりも人柄が最優先ではある。
しかし、どんなに人柄が良くても、服装がだらしなかったりしていたなら
その人の第一印象は半減してしまうというのだ。
商売をしているならば、尚更のことであるというのだ。

高山氏は銀座の老舗『英國屋』のオーダースーツで身を固めていた。
ちょうど、新しい洋服が出来たというのでその『英國屋』にご一緒した。
そのお店は8丁目のてんぷら「天國」の隣に位置している。

二人が店内に入ると、男性の営業マン(ここでは店員とはいわないそうである)が
うやうやしくお辞儀をし、出迎えてくれた。
奥のエレベーターで2階のフロアーに案内され、窓際のソファに通された。
眼下には銀座通りがよく見える。
床には絨毯が敷きつめられ、外から見るのとは違い、店内は明るくひろびろとしていた。
やがて、高山氏の担当者が現われた。
高山氏と同世代なのだろうか、日焼けした顔をし、すらりとした背の高い人だ。
名刺の交換をする。
はじめての慎一に気をつかってくれているのか、高山氏とお話をしながらも
笑顔を見せながら、慎一にも言葉を投げかけてくれる。
ふたりの会話は、お客と営業マンの立場の会話とはほど遠い、友人同士のようなそれであった。
聞けば、高山氏とは10年来のおつき合いとのことだ。
慎一と同じように、この8月にこのお店に赴任したらしい。
RAY'Sにも近いこともあって、高山氏もこの営業マンに引っ張られて、
今はこのお店で注文をしているのだそうだ。

出来上がった洋服というのは札幌用にとのことで、カシミヤのジャケットとコートであった。
値段を聞くと、高山氏は笑って答えなかったが、きっと、高いのだろう。
高山氏は言う。
「良いものは長もちをする。2〜3年で駄目になる洋服より、5年、10年着れる洋服は
結局は、得をする結果になりますよ。」
また、
「世の中、からだが左右対象の人間はいない。特に学生時代、野球をやっていたので、左右の肩まわりが極端に違うんです。以前はお尻が大きいのでヒップサイズに合わせてスラックス買っていました。しかし、
はじめて、オーダー服が出来上がり、スラックスをはき、上着をはおった時に、腰のフィット感、
肩まわりのフィット感には驚きましたよ!」とのこと。
オーダーならではの技であろう。
高山氏のジャケットを試着させてもらったが、さすがカシミヤ!という感じであった。
軽く、しなやかで暖かさが伝わってくる。

「冬のボーナスで自分も一着お願いしてみようかな?」
なんて思いながら店を後にした。

10月4日、慎一の法人販売課はこのRay'sで会食をしていた。
会食といっても、単なる飲み会なのだが.....。
ここRay'sでは毎月、第1月曜日に食べ放題バイキングディナーをやっている。
料金は3,500円(税込み)。
ゆったりと座って、しかも予約が出来るシステムである。
イタリアン、フレンチ、日本食という料理の枠を超えて、常に美味しいものを提供することを
念頭においているカフェ・ダイニング・バーである。
出雲ビルの地下1階に店を構えている。
階段を降り、ドアをあけると、広い店内は料理で埋まったテーブルで仕切られるように、右と左に分かている。
右は4人掛けのテーブル席が並び、左には大勢客のための長めのテーブル席であった。
慎一グループは左のテーブルに案内された。

おいしい料理とお酒に囲まれながら、慎一も上機嫌であった。
ひとしきり、料理に堪能し、デザートでも食べようかと中央のテーブルに向かった。
テーブルには数種類の果物とケーキが並べられていた。
慎一はお酒もやるが、甘党でもある。
慎一はケーキのなかに、あの一世を風靡したティラミスを発見した。

慎一はケーキ皿を持ち、そのティラミスに近づいた。
そして、トングを持とうとした時、もうひとつの手が伸ばされた。
ほっそりとした女性の手だった。

ゆっくりと視線が交差した。
そこには夏子が立っていた。

『こんばんは!』
『お久しぶりですね!』

懐かしい友達に会った時のように言葉が素直に滑りでたふたりだった。
『お元気でした?』
『えぇ。あなたは?』
『元気ですよ。よくお会いしますが、お近くなんですか?』
『えぇ。5丁目に勤めています。』
『そうなんですか。僕は7丁目です。』

     
他愛もない会話が続き、
お互いがお互いを意識しはじた頃、
『夏子〜!まだぁ?みんな、待ってるんだけれど〜。』

典子だった。きょうは典子と、もう2人の計4人が集まっての食事会だったのだ。

『良かったら、メールでもください!』
と、慎一は一枚の名刺を渡しながら、自分の席に戻っていった。
もちろん、ティラミスをたずさえてだが......。

『あれ〜?夏子。この間の人じゃない。いつから、親しくなったのよ。隅に置けないわねェ〜。』
『偶然に会っただけよ。』
『本当に偶然?あやしいなぁ〜。そうかぁ。3度目の出逢いじゃない?
ひょっとしたら、ひょっとするかもね。』
『なにを言ってるのよ! いいから、典子もティラミス、持ってよ〜。』

自分のテーブルに戻り、楽しい会話が続いていたが、
夏子は胸のポケットにある一枚の名刺が気になっていた。

食事会を終え、会計をすましながらも、夏子の視線はおのずと慎一を捜していた。
慎一らしい後ろ姿はなかった。
夏子たちよりも、はやめに切り上げたのだろう。
RAY' Sの階段を上り、銀座通りを4丁目方向に歩く4人。
夜のネオンと客待ちのタクシーが通りを埋め尽くしていた。
『これから、どうする?』
『ファゼンダでもいって、カラオケでもする?』

ファゼンダは夏子たちがよく行く、カラオケボックスだった。
ボックスといっても、8階建てのビルすべてがボックスで、24時間営業の綺麗な店であった。
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日比谷線銀座駅23:52分。
これが夏子を家に連れてかえってくれる最終電車の時刻だった。
夏子は無断外泊はしない。
最終電車はいつも混んでいた。
松原団地駅を過ぎると、電車は空いてくる。
あいた席に座りながら、
夏子は胸ポケットからそっと名刺を取り出した。

榊 慎一/ Shimichi Sakaki
 携帯:090-885-8○○○○
 
bmw@pb.highway.ne.jp

シンプルな個人用の名刺だった。


慎一は会社の肩書きが入った名刺は、俗にいうアフター5には持たないことにしていた。
プライベートと仕事は切り離して考える主義だった。

家に帰り、自分の部屋に戻った夏子はパソコンの前にその名刺を置いた。
そして、ゆっくりとお風呂に入った。
お風呂から出て、髪をドライヤーで乾かしていると、
いつしか鏡に映った自分に問いかけていた。
「偶然ってあるものね〜。」
「私って、変でなかったかしら?」
「夏子!恋の予感がする?もうそろそろ、次の恋もいいんじゃない?!」
「どうするの?好きになっちゃうの?」

その後、数日間、
慎一の名刺はパソコンの前にあった。



 


この物語に登場する人物の名称・設定はたぶん、架空のものです。
しかし、場所などはすべて現存するものです。
夏子と慎一の銀座をあなたも歩いてみませんか?