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古代に世界最大級の墳墓が築かれ、中世には海外貿易で殷賑を極めた堺。長い歴史を通じて外界との「堺」でありつづけたこの街において、北京出身の気鋭のエッセイストが、「日本」と「世界」を覗いた―――「旅」月刊誌2000年6月号全文掲載・毛丹青  


バスで泳ぐ街

「河」のなかに潜り込む

シャトルバスのことを中国語で"穿梭巴士"という。"巴士"は英語の"bus"の音に漢字をあてた言葉。"穿梭"は、本来は織機の杼の意味だが、転じて河底の乱石を自由に泳げる魚の群れのことを指す。河の流れに乗って放浪する魚、河底の水景を見慣れた魚も、どこか新鮮な場所を求める気持ちを持っているのかもしれない。  私は、堺市のシャトルバスに乗り、しばらくこの町を遊泳しているうちに、何となく河のなかに潜りこんで泳ぎ始めた気がした。実に妙な気分だ。

「旅」月刊誌 2000年6月号

大阪の難波から南海電車で一直線、堺駅で降りる。電車の窓から見る風景は雨雲が沸きあがっては飛び去り、車輪がレールを擦る鋭い音が響き、落ち着かない気分になる。 堺駅で降りるとさっそくバス停で「ぶらり堺一日フリー乗車券」という切符を買った。どの路線のバスに乗るか時刻表で調べなくては、と思っていたら、一日乗車券の裏に有効範囲が示された簡単な地図が載っていることに気がついた。いくつもの路線を示す黒い線が切符に絡んた格好で、街の全体を見るマップとしても分かりやすく便利である。まず都心部エリアの宿院に行ってみることにしよう。

この町への一歩は、シャトルバスに乗った時からスタートした。私の目に遠景の風物がふつふつと現われ、蜿蜒とつづく道も私を落ちつかせてくれた。電車のように一直線の疾走ではなく、空を矢のように翔ける鳥のような飛行機ともちがう。バスのなかの私は、ただ車体の多少の揺れに身を任せながら、閑暇をしみじみと味わえる空間にいる。バスと一体になって、淵を泳ぐ魚に変身したかのように町を行き来する。"おとなりにあげる安心、火の始末"、"おふたりの愛をかたちに"。道端の看板の文字も、川辺の苔のようにきらきらと次々と私の目に迫ってくる。

宿院のバス停に到着した。すぐ近くの千利休屋敷跡を訪れる。ここに、大永二年(1522年)に佗茶を大成させた男がいた。彼は、堺の豪商の長男として生まれ、若い頃に茶湯を学び、信長・秀吉の茶頭をつとめた。屋敷跡には今も、椿の井戸がひっそりと残っている。古い町並み、緑深い寺院、現代風の建物も混在している宿院。この屋敷跡も古今入り混ざった雰囲気にとっぷりと包まれている。私は竹垣に囲まれた井戸と傍らの千利休の碑を飽かず眺めていた。日本の美を究めた天下一の茶人に思いをめぐらせながら、ある本の中の、この高名な男のことを書いた一節がふと私の脳裏をかすめた。それは、日本語の本ではなく、私が日本語をまったく喋らなかった十何年前に読んだ中国語の日本史の書籍であった。千利休が茶人であり芸術家であるというイメージは、今もその時に読んだ幾つかの漢字として私の記憶にそのまま埋められていたことにはじめて気がついた。

「動」から「静」へのアプローチ

屋敷跡に続いて、開口神社に足を向けることにする。少し寄り道して、周辺のお寺のほかに、宣教師来航四百年を記念してつくられたザビエル公園を通りぬけた。フランシスコ・ザビエルは日本に最初にキリスト教を伝えた宣教師で、天文十九年(1550年)堺への上陸を果たした。当時のこの街はアジア有数の国際貿易都市として知られ、町衆も異国の宣教師を温かく迎え入れた。自らの邸宅を教会として提供すると申し出た商人もあらわれた。ザビエルは、キリスト教を伝えただけではなく、彼の来航をきっかけに日本とヨーロッパとの交流の道を拓いた。紀州街道に残された石碑にはこのような歴史が刻まれている。街のどこかに時代の面影が今も息づいているようにみえる。

私は、緑陰深い開口神社の鳥居をくぐりぬけて境内に入った。日本には神社仏閣が多くあるが、その半数近くが神社だという。キリスト教由来のザビエル公園もまた同じく都心部に点在するのも、この街の信仰への懐深さを象徴している。かつてこの町で生きていた人々は、きっと豊かな異文化に触れ、潤いのある空間を得ていたのだろう。お寺と神社、それにザビエル公園も、どれもけっして孤島のように大海原にぽつんと浮かんでいるのではなく不思議に互いに馴染み合い歴史をかさね、華やかな自由都市の景観を残してくれた。

「旅」月刊誌 2000年6月号

 再びバスに乗ることにした。ここからしばらく、都心部の紀州街道に沿って走った。車体が車線変更するたびに身体が傾ぐ感覚も、だんだんと私を魚に仕立ててくれるようだった。窓の外の風景が次々と入れ替わる。そして、バスの座席に座ったままの私のなかで、目に付く景色に思いをはせる私の想像ばかりが膨らみはじめた気がする。これこそ、"動"を続けるバスから"静"を保つ街並へのアプローチそのものかもしれない。

次に訪ねたのは、紀州街道沿いの堺刀司という刃物屋であった。堺の刃物は、市内の仁徳天皇陵の構築工事に使われた鋤鍬等の製造から始まったと伝えられている。その後、食い道楽の大阪を支えながら優れた調理道具を生み出した。店に入ると、熟練した職人が、畳の上で包丁の柄付けの作業を行っていた。小さい炉の中で熱した刃を素早く柄に挿げながら、ハンマーで柄の端を叩きこむ。溶挿げの加減を見きわめながら、手の感覚で仕事をする。柄付けの作業は一個ずつ手作業なのだと職人さんが紹介してくれたが、その間も畳の上にあぐらをかいた彼の両手は止まることなく作業を続けていた。ここで意外な発見があった。日本に来てから、私の畳に対する概念は「和室」でしかなった。畳は作業用の現場でも使われるというのは、新鮮な発見であった。堺の包丁は、鋭利でぴかぴかしている。柄付けのあとは、いっそう光り輝きが増しているようにみえる。

バスとともに「魚」になる

さて、このバスの旅では、何回途中下車しようと別料金がいっさい加算されない。これが、何といっても一日フリー乗車券の嬉しいところだ。私は何だか安心して、乗車券で行ける有効範囲をあれもこれもと欲張ってしまう。さぁ、今度は市役所経由だ。これに乗って高層館にも登ってみようじゃないか。バスはもうまもなく漕ぎ出そうとしている。

現代堺のシンボルともいわれるこの高層館は、地上80メートル、360度の眺望が楽しめる回廊式で、少しくらい曇っていても遠くまで見渡せる。東の新都心、南の緑と古代建築、西の旧堺港周辺、北の古い町並み、それぞれ目底に収めることができた。

今年の夏には、ここ堺市の大仙公園で「ワッショイ2000!世界民族芸能祭」という大イベントが開催されるそうだ。中世に海外貿易で賑わった堺旧港を舞台に、若者達が集まってくるのだ。言葉や文化の違いを越えて互いに理解しあえる素晴らしい"民族芸能"を携えて外国の人々もやってくる。ちょうどこの日、「アフリカをもっと知ろう」という楽しい塾を開いていた。子供から大人まで多くの市民が参加し、異国の文化に至近距離で触れたいという熱意が会場を包んでいた。日本人のアーティストによって演奏されたアフリカの曲は、私をこの町からあの大陸へ誘った。バスの旅の途中で思いがけず、堺だけに止まらず、この地から開かれていく世界を望むこともできる気がした。
古くからこの堺市で、異文化の架け橋としての多彩な活躍の舞台がまた生まれる。この夏は新しい体験が期待できそうである。

私の一日のバスも、いよいよ最後の路線に入る。仁徳陵に降り立つと、急に雨が降り出した。枝垂れの少し枯れた葉が枝からはなれて、ひらひらと切なく落ちてきた。正面の遥拝所から眺めると、五世紀に造られた仁徳陵古墳がまるで幻視のように映る。雨しぶきの燐光が白く浮かび上がり、哀愁を漂わせる。雨に身体が冷えたので、近くの茶室「伸庵」で一服した。気軽に呈茶を楽しみながら、格別なひとときを過ごした。

バスの旅は、常に車体の動きにお供することでもある。車窓に流れていく風景に気を引きつられながら、揺れ動く私の身体もいつのまにかバスと仲良く付き合っている。私は泳げる魚のようなゆっとりした感覚をバスの移動から確かに感じた。

バスから帰りの電車に乗り換える直前に、湊駅の近くで「湊潮湯」という銭湯を見つけた。バス停のすぐ前に、まるで一日の旅人を暖かく迎えるためにそこに現われてきたかのように、その銭湯はあった。磯の香の海水風呂があり、いかにも庶民の憩いの場という 風情のこの湯は、バスの一日旅へのご褒美として堺の街が授けてくれたもののように 思えた。
そう思うと、こんな小さな旅をこれからも求め続けたくなった。

「旅」月刊誌 2000年6月号


紙面写真:宮川透




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