先般、NHK教育テレビで毛丹青(マオタンチン)という青年学者が『歎異抄』の中国語訳を出版され、歎異抄の尽きせぬ魅力に触れておられ、特に歎異抄の精神が映画「芙蓉鎮」(1987年制作)のテーマとすらなっていると指摘されていた。

   小生は、この文化大革命の不幸を描いたとされる映画をみていないが、右翼反動との烙印を捺され、懲役十年の刑に服した青年が、「ブタのように生きぬけ」と、自らに激励した姿に、国境を越えて親鸞聖人を見た思いがした。そして、改めて歎異抄の一行一行の重さと深さを痛感した。

   番組は「歎異抄に学ぶ」と題し、訳者の毛丹青氏に同朋新聞編集委員の方が聞く形を取った啓蒙的なものだったが、小生はボロボロになった暁鳥敏先生の『わが歎異抄』をひらき、番組に出てきたくだり「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」を探し出し、暁鳥敏先生の分かり易い講話をも読み直し、感服を新たにした次第だ。特に「とても地獄は一定すみかぞかし」は「地獄へ行くのではなく、今地獄にあるのだという自覚…」そのとき「たすかります」。つまり「地獄一定」という自覚の底に「弥陀の本願」が湧いている、といわれる。ただただ凄絶というしかない。

   しかし、自らが地獄のただ中にいるという自覚のためには、自らの「邪見傲慢のあさましさ」そのものの自覚が前提だ。親鸞自身、師の法然聖人に対し、かなりの永きに亘り「頭を垂れぬ」我の強さを自覚しないで来たらしい。だが、それを自覚したとき、真の偉大さが確立した。中国で言う四才(天才、英才、鬼才、それに愚才)の最高は「愚才」だそうだが、親鸞聖人こそ言葉の正確な意味で、この愚才の自覚を出発点とした人だと考える。

「大法輪」より転載、平成七年二月号 p.222




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