莫言 原作  毛丹青訳 吉田富夫監修
  『世界』(岩波書店刊行 平成12年1月号掲載)

 映画『赤いコーリャン』の原作者として知られる莫言氏は、今年秋初来日。京大会館で行われた講演会で、自身の人生の歩みと文学との関わりについて語ったことは、中国国内でも無い。ここには、莫言文学を理解するための鍵が隠されているだけでなく、四百万字書いてきた小説のパワーの源流ともいうべき想像力のありかを探る上で、貴重な証言ともなっている。


  ここで皆様に講演することができますのも、私が書いた数編の小説が、日本の中国 文学研究者の吉田富夫先生や藤井省三先生、そのほか多くの先生方によって日本語に 翻訳されたからであります。私の小説がそれらの先生方のお眼鏡にかなったのは、幸 運でありました。こうして日本の美しい国土を踏み、皆様を前にお話出来ますことを 大変光栄に思っていますが、二十年ほどまえに物書きを志した頃には、夢にも思わな かったことであります。

  二十年ほど前、最初の小説の筆をとった時、この仕事が私の運命を変え、私の作品 が中国現代文学のありかたを多少なりとも変えることになろうとは、想像もしていま せんでした。当時の私は、故郷の山東(シャンドン)省高密(ガオミー)県東北郷(ドン ベイシアン)のコーリャン畑から飛び出したただの農民でした。都会人が田舎者をか らかう言葉を借りて言えば、私は<コーリャンを頭にかぶった>人間だったのです。 私が文学創作をはじめた動機は、ごくごく単純なものでした。私は自分の虚栄心を満 たすために、原稿料でピカピカの革靴を買いたかったのです。革靴を手に入れると、 野心も自然と膨らんで、上海製の時計も欲しくなりました。時計を嵌めて故郷に戻 り、村の連中に見せびらかしてやろうというわけです。その頃の私は兵営の見張りに 立つたび、長い夜の時間を、想像をふくらませることで夢中になって過ごしました… 革靴を履き、腕時計を嵌め、故郷の大通りを歩き回ってやるぞ。村の娘たちは熱いま なざしを向けるに違いない。それを想像すると、私は感極まって涙を流し、見張りの 交替時間もすっかり忘れはてる始末でした。

 残念ながら、結局私の原稿料で時計を買うことはできず、私の最初の時計は、父が 牛一頭を売ってようやく買えたのでした。さらに悲しいことには、村の娘たちは私に 目もくれず、私を眺めてくれたのは数人の老婆だけでした。彼女らの視線にあったの は嫉妬でした。


  私が物書きを始めた頃の中国の現代文学はいわゆる<傷痕文学>の後半期にあたっ ており、ほとんどの作品が文化大革命を告発したものでした。この時代の中国文学 は、あれこれと政治的任務を背負いこんでいましたから、文学作品として独立してい たとは言えますまい。私もその頃流行していた作品を真似していくつかの作品を書き ましたが、それらは、いまになって読み返すと、本当に燃やしてしまいたいようなも のです。

 文学は政治支配から解き放たれうるということに思い至ったとき、私はようやく完 全な意味での文学作品を書くことができるようになりました。それは八十年代の半ば のことでした。この悟りを、私のある読書体験を通して得ることができたのです。十 五年ばかりも前のある冬の夜、私は川端康成の「雪国」を読んでいました。そして、 次の一節を読んだとき、生き生きとした一枚の絵があたかも生き物のように、私の目 の前に現れたのです。

莫言さんは語る
 「黒くたくましい秋田犬がそこの踏み石に乗って、長いこと湯をなめていた」  これを読んで、私のこころは待ちに待った愛する人の手によって撫でられたかのよ うに感激にうち震え、激しい興奮を覚えました。小説とは何かが分かったのです。何 を書くべきかを知り、どのように書くべきかを知ったのです。それまでは、何を書く か、どのように書くか、ずいぶん悩みました。自分に適切な物語が見つからず、まし てや自分の声を発するなど、とてもかないませんでした。川端康成の小説のこの一行 が、暗夜の灯台のように私の行く手を明るく照らしてくれたのでした。
 私は「雪国」を読み終えるのを待たずして本を放りだし、自らの筆をとりました。 そして次の一行を書きました。

 「高密県東北郷原産の大きく白い従順な犬は、何代も続くうちに純血種は殆ど見かけなくなった」

 これが私の小説のなかで<高密県東北郷>を初めて登場させたものであり、また <純血種>なる概念を出現させた初めです。これがのちに台湾で聯合文学賞を受賞し た作品で、多くの外国語に翻訳された「白い犬とブランコ」です。その時から私は <高密県東北郷>なる大旗を高々と掲げて、まるで荒野を暴走する若き英雄のよう に、兵馬を集めてわが王国を築いてきたのです。もちろんそれは文学の王国ですが、 そこでは私がこの王国の国王です。その王国において、私は思うままに号令を発し、 生殺与奪の権限を握って、天下に君臨する幸せをたっぷり味わえたのです。

 <高密県東北郷>という大旗を高く掲げるまで、あるいは川端康成先生のあの湯を なめる秋田犬を読むまでは、私は創作の素材をずっと探し出せずにいました。私は教 科書の教えどおり、農村や工場に行き、いろいろな生活を体験してきましたが、戻っ てきても何かを書きたい気にはなりませんでした。川端康成の秋田犬が私を目覚めさ せてくれたのです。そうか、犬も文学に書けるし、お湯も文学に書けるのか! この 時点から、私は新しい創作の素材が見つからないことに悩むことはなくなりました。

 この時から、一つの小説を書いていると、別の新たな小説が、あたかも卵を産むた めに急いで帰ろうとする鶏のように、私の背後で鳴き続けるようになったのです。か つては私が小説を書いていましたが、いまや小説が私を書くようになり、わたしは小 説の奴隷になったのです。
 

  言うまでもなく、作家はだれも一定の社会的政治環境のもとで暮らしていますか ら、政治とまったくかかわりのない作品を書こうとしても、それは不可能なことで す。ですが、優れた作家はあらゆる方法を使って、自分の作品にもっと広く、一般的 な意味を与えようと懸命でしょうし、できるだけ多くの人に理解され、受け入れられ るように努力するはずです。作家が描くのは自分の掌のように小さい故郷の場所であ り、そのような小さな場所での人間や事件に過ぎないかもしれません。けれども、優 れた作家は、筆を執る前に、その掌ほどの小さな場所が世界に不可欠の構成部分であ ることを認識し、そこで起こったことも世界史の一幕であることを意識しているので す。だからこそ、彼の作品は全世界に解き放たれ、全人類から理解され、受け入れら れる可能性を持つのです。これは、アメリカの作家フォークナーが私に啓示してくれ たことであり、日本の水上勉、三島由紀夫、大江健三郎などが啓示してくれたことで あります。もちろん、彼らがいなくとも私はこのように書いたかもしれませんし、彼 らがいなくともこの道を歩んだかもしれません。けれども、彼らの創作実践が私に有 効な経験を提供してくれたおかげで、私は回り道をせずにすんだのであります。

 1985年、私は「透明な赤蕪」「爆発」「枯れた河」などの一連の小説を書き、 文壇で広く知られるようになりました。1986年の「赤いコーリャンの一族」で文 壇に地位を確立しました。1987年には「歓楽」「赤いイナゴ」を書きましたが、 この二つの中編小説は、激しい論争を巻き起こし、長年私の小説を持ち上げてくれて いた評論家の中にも、私を嫌いするようになりました。彼らは私の作品に肝を潰した のです。

  それからの二年間で、私は長編小説「天堂(ティエンタン)のにんにくの歌」と「十 三歩」を書きました。「天堂(ティエンタン)のにんにくの歌」は実際に起こった事件 に基づいて書きましたから、現地の汚職官吏どもは、あいつの足をへし折ってやるな どと触れ回っていました。「十三歩」は大変複雑な作品です。去年、フランスのパリ の某大学で講演を行ったとき、あるフランス人の女性の読者が、「五色の色鉛筆で印 を付けながら読んで、ようやく理解できた」と言いましたので、私は彼女に「私にこ の作品再読させたら、鉛筆は六色必要でしょう」と答えたものです
 

  1989年、私はのちに藤井省三先生の手で日本語訳された「酒国」を書きまし た。この長編小説は、中国ではあまり知られていませんが、いままでの私の作品のな かで、もっとも完成度の高い長編小説だと考え、誇りをもっています。その後の何年 かであれこれ中、短編小説を書きましたが、心の中ではある一つの大きな題材がずっ と私に呼びかけつづけ、ずっとそれが気になってたまりませんでした。それが、ほか でもないこのたび吉田富夫先生によって日本語に翻訳された「豊乳肥臀」です。この 小説は、中国国内で私に大変な面倒をもたらした作品であると同時に、新たな名誉も 与えてくれました。かりに「酒国」が、美しく、しかし、時には悪戯もする愛人であ るとするなら、「豊乳肥臀」は、寛大で、心暖く、穏やかな祖母なのです。

莫言さんは語る
 私はこれまで、中国の評論家達によってあれこれと文学流派のレッテルを貼られて きました。時には「新感覚派」と呼ばれ、時には「ルーツ派」と呼ばれ、また「前衛 派」の陣営に帰属させるべきだいう人もいました。これに対して、私はなんの反対も 賛同もしませんでした。優れた作家は自分の創作に関心を寄せさえすればよく、読者 がどのように自分の作品を見るかにすら、あまり関心はありません。関心を寄せる対 象は作品中の人物の運命です。なぜなら、それらに人物は作家によって創り出され た、作者自身よりもさらに大切な生命であり、血肉のつながりを持っているからで す。一人の作家が一生に出来ることは、実はただ一つのことです。それは、みずから の血と肉とをおのれの魂もろとも作品に移し植えることです。

 一人の作家は、その生涯に何十冊もの本を書くことができ、何百人もの人物を登場 させることができます。しかし、それら何十冊の本もただ一冊の翻版にすぎず、何百 人もの人物もただ一人の人物のさまざまな化身なのです。それら何十冊もの本を一冊 にまとめれば、その作家の自伝になるでしょう。それら何百人もの人物を一人に合成 すれば、それは作家自身の自画像となるはずです。

 もし私に、自分の本の中からそのような人物を選べと言われたら、その人物とは、 「透明な赤蕪」の中で描かれたあの名も知れぬ黒い子どもだと思います。あの黒い子 どもは、話す能力は持っていますが、めったに話をしません。かれは一滴の水も凍り つく寒い冬でも、パンツを一枚はいただけで、上半身は裸で、裸足です。また、彼は 灼熱の鋼鉄を素手で握ることができ、体の傷など見向きもしません。彼は幻想能力を 持っていて、ほかの人が見えない奇妙で美しいものを見ることが出来ます。彼はほか の人が聞き取れない音を知っていました。例えば、彼には髪の毛が地上に落ちた瞬間 の音も聞こえるのです。彼は、ほかの人が嗅いでもわからない匂いを感じとれます。 もちろん彼は、「豊乳肥臀」の主人公上官金童(シャングワンヂントン)のように、女 性のオッパイに恋しています…。彼はこれらの通常でないものを持っていたからこ そ、彼が感じた世界そのものが普通の人の感じるそれより美しく、新鮮なものになっ たのです。ですから彼は、自分の眼で人類の視野を開拓し、また自分自身の体験に よって、人類の経験を豊かにしてきたわけです。彼は、自我であると同時に自我を超 え、人間であると同時に人間を超えているのです。科学が発達し、コピー生活がこれ ほど便利になりつつある現代にあっては、このような擬似的超越にこそ、文学が存在 し、かつこれからも存続しつづけていくであろう理由があるのです。

  黒い子どもは、一つの精霊です。彼は私と共に成長し、私に寄り添って世界を歩き 回ります。彼は私のお守り神です。いま、ここで彼は私の後ろに立っています。も し、男性のみなさんに彼の姿が見えないとしたら、女性のみなさんにはきっと彼の姿 が見えるはずです。なぜなら、どんな奇異な子どもであっても、かならずその子には 母親がいるからです。
 
(1999.10.24 京都大学会館で行われた講演会より)


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