張抗抗の代表作「愛情画廊」  

女流作家 張抗抗に聞く
私にとっての中国文学
解説:この記録は、新中国作家紀行の世話人でもある大阪外大の助教授青野繁治先生によって執筆された。全文ではないが、一部の内容をここで掲載することにした。

 張抗抗さんは前日からホテルに泊っていたので、すでにロビーの喫茶店で顔合わせを済ませていた。会場であるホテル2Fの会議室へ行くと、長方形のテーブルを囲んで椅子がならべられていた。ホワイトボードを背にして、長方形の短い辺の中心に張抗抗さん、その右隣に通訳の毛丹青、左隣に司会の形で青野がすわった。
 初めての試みなので、どのような話題から切り出したらよいか、考えあぐねた結果、『野草』59号編集の際に行なったアンケート結果を、中国語に翻訳して持って行っていた。これを作家も含め参加者全員に配ったのであるが、初日であるこの日には始めて目にする人が多かったので、青野が日本語でツアー参加者に内容を説明し、その間に中国語訳を張抗抗さんに読んでもらい、このアンケートの結果についての感想から話してもらうことにした。
 あとから考えれば、この説明はみんなに前日の晩に集まってもらって話しておくべきだったのだが、我々の到着が夜遅く、現地参加の人もいた関係で、それも難しかった。結局、説明は必要であったし、また張抗抗さんの経歴の説明もあったため、私の話は長くなりすぎてしまった。張抗抗さんの話をきく時間がその分少なくなったわけだ。ともかく説明を終えて話を聞く順番になった。ちなみに、張抗抗さんは「夏」が3票獲得していて、得票数は多かったが、彼女のほかの作品や特に長編小説については、全く題名を挙げた人がいない、というアンケート結果だった。
 以下、張抗抗さんのお話である。ビデオ及び録音テープに基く記録だが、一字一句再現したものでなく、私が適当にアレンジしてまとめた。


女流作家・張抗抗
青野:この調査についてどう思われますか。
張:このような詳しい、データに基く分析は、科学的な研究方法だと思います。今まで知り合った外国の研究者から、このような方法で調査されたデータをもらったことはあまりありません。日本と中国は歴史的に関係が深かったので、私は中国と日本の作家と読者は西洋よりももっと密接でなけばならないと考えています。中国の作品はもっと日本の出版市場に紹介されなければなりません。このリストを見ると、早い時期の作品が相対的に多くなっています。近年のたくさんの作品が日本語に翻訳されています。しかし第一印象としてインプットされた最も初期の作品の方が近年の作品より、日本では優勢をしめているようです。我々の生活はもう90年代にはいり、今年はもう1998年です。ところが90年代になって登場した新作家や90年代に書かれた我々「老」作家の比較的よい新作品は、このリストにはあまり反映されていません。私は以前からそうではないかと感じていたのですが、今回のように具体的なデータを見るといささか残念です。以前から私は文化交流・文学交流のなかで、うまく通じあえないものを感じてきました。それをどのようなやり方で調整したらいいのでしょうか。一つは正規の公的な(官方的)交流の道です。もう一つは「漢学家」個人の選択による交流です。この二つは両極端ですが、その両極端の中間に、もっと相互浸透、相互輻射ができるような、もっと広くもっと直接に、この両端の間の溝を埋めるようなものができないか、と思います。ですから、私は毛丹青君と知り合ってから彼のやってきた仕事や、今回のような機会は努力してつくらなければならないと思うのです。
張抗抗の代表作
 ところで中国大陸の読書や文学市場においては、長編小説は重要な位置を占めています。今では多くの作家が次第に短編小説の生産を減らしています。たとえば私はもう10年間短編小説を書いていません。もう一つは、優れた短編小説が、読者の長編や中編に対する注目の中で埋もれている、ということです。近年来長編小説が発展してきた原因を考えますと、現代の経済と日常生活の高速化によって、長編小説を読む時間は少なくなっているはずなのですが、不思議なことに、中国の読者はやはり長編小説の方を受け入れるのです。その確かな原因を私は今でも見つけ出せないでいます。
 私自身、文筆家という立場から言えば、80年代中期に『隠形伴侶』という長編小説を書いたことがあります。この小説は1986,7年頃日本から来た留学生で、Tangshan Fumeiziという人がいて、当時は愛媛大学にいたのですが、今は東京にいます。彼女は勉強したのち帰国してから、私に日本の研究資料を送ってきて、それは彼女が何回かにわたって講義をした講座の資料で、作品を詳しく紹介していました。彼女は作品を読んで大変興味を抱き、講義でとりあげてくれたのです。その後、この作品はテレビドラマ化され、一昨年彼女が来たとき、そのドラマの全部のビデオを贈呈しました。八集か十集のビデオテープです。彼女が最初に私の長編小説に興味を抱いた女性の中国研究者でした。彼女からは長編小説が長すぎるというような言葉は聞きませんでした。
 日本で長編小説を翻訳するのは困難であるという事情は解っています。  しかし私は90年代になって2つの長編小説を書きました。95年に発表した『赤tong(丹彡)丹朱』と96年の『情愛画廊』です。10年間に3編の長編小説、10編の中編小説を書いたのです。このように中・長編小説に力を入れてきたのですが、この調査には18年前に書いた短編小説一編(「夏」)しか載っていません。とても残念なことです。  中国の作家はどうしてこのように中・長編小説を選ぶのでしょうか。私たちが生活し蓄積してきたものは、塊になっているものが多く、凝り固まった大きな重たいものなのです。
 一つ例を挙げましょう。汪曾祺先生がまだ健在の頃、私は一度電話をしたことがあります。先生は私に最近何をしているのかと尋ねられ、私が長編小説を書いていると答えると、長編小説を書く人はウワバミのようだ、といわれたのです。みんな知っているように汪曾祺先生は短編小説以外のものを書かれなかった人ですから、私が長編小説がウワバミなら短編小説は何ですか、と聞いたのです。すると答は、短編小説はミミズだというものでした。私はこの譬えはとても面白いと思いました。ミミズは土には欠かせないものです。土を掘り返せば、体は幾つにも切れてしまいます。私の小説がウワバミであるとは、よう言いませんが、この譬えはとても面白いと思いました。
張抗抗の代表作
 次に我々の小説が、80年代に英語、フランス語、ドイツ語に翻訳された経験から言えば、中編小説を書いた場合に翻訳される可能性が高いと言うことがはっきりしています。ですから、ある人はそんなに長い作品を書かないで半分くらいのを書きなさいと勧めます。普通西洋では10万字以上が長編小説なのですね。10万字なら翻訳もしやすいし、出版も問題ありません。ところが新たに『情愛画廊』を書いたら、やはりこんなに厚くなってしまいました。後で気づいたのは奇妙なことに私のこれら3つの長編小説はどれも32万字だったのです。ですからある研究者は、あなたの一息がちょうどこの長さなのでしょうね、と言いました。
 ときどき感じるのですが、中年作家になって、今まで蓄積してきた生活体験を書くには、長編小説でなければ収まりきらないのです。私たちが書いてもっとも難しいと思うのはやはり短編小説なのです。作品の構成や言語に対して高度な技巧が要求されるからです。中国にも汪曾祺や林斤瀾のような短編小説作家がいます。けれども若い作家の中には、短編小説だけを書いている人はほとんどいません。19世紀には傑出した短編小説作家チェーホフやメリメなどがいました。今の中国にはほとんど見当たりません。
 青野:中国の長編小説の出版情況はどうなっているでしょうか。今年は経済不況の関係ですこし停滞しているようですが、ここ数年間ではずっといい情況でした。最近の長編小説は毎年平均どれぐらい出ていますか?
   張:すくなくとも700部は出ているはずです新人作家が短編小説でデビューして出てきて、3年後長編小説を出すことができなければ、彼は好い作家とは言えないという感じがあります。3年後に長編が書けて初めて文壇の認知をうけるのです。中国の作家に会ったら、どんな作品を書いているかと聞いてごらんなさい、必ず長編小説を書いていると答えるでしょう。賈平凹は『廃都』を書いて、次に『土門』を書きました。最近は『高家荘』というのを書いています。余華は『許三観売血記』です。莫言は数年前『豊乳肥臀』を書きました。劉心武は『鐘鼓楼』のあと、『風過耳』『四牌楼』更にずっと最近では『西鳳楼』を書きました。史鉄生には最近『 事筆記』があります。王安憶は『長恨歌』で、その前には『紀実与虚構』を書いています。どうしてこのように長編小説が読まれるのでしょうか。それは東洋人のゆったりとした生活姿勢が一つ、それからコンピュータを使ったマルチメディアの媒体がまだ充分浸透していない、ということがあるのではないでしょうか。

 中国では評論家になるのは大変です、たくさんの作品を読まねばなりません。彼等の話では、北京ではほとんど毎日長編小説に関する討論会が開かれているそうです。もし一年間に1000部の長編が出版されて、その3分の1がよく売れたとすると、評論家は1日1部ずつ長編小説を読まねばなりません。それに堪えかねて散文にくら替えした人も結構います。読むのに数日かかって、さらに評論を書かなければならないのですから、大変だと思いますよ。経済的効率も悪いですね。
 しかし長編小説が生まれる土壌があれば、またそれが読まれる素地もあるのです。『隠形伴侶』は1986年に書きましたが、現在までに、6版を重ねています。最初は多分3万冊印刷しました。89年以前に3回刷り増しをして、それで大体10万冊を越えますが、90年代になって別の出版社で3回刷り増しされて、今もまだ増刷しているところです。  例外的なことですが、この『隠形伴侶』は英語で全訳が出されました。カナダのある中国研究者が、気に入ってくれて、その選択はその方の個人的選択だったのですが、一年かけてきれいな英語に翻訳し、出版先を探してくれるというのです。80年代の英語圏の研究者は当時ふまり商業的な配慮はしていませんでした。翻訳が終ったのは89年で、ヨーロッパの出版社に送ったのですが、中国の政治的問題があって、受け入れてもらえませんでした。あちこち回されたあげく、中国の外文出版社から出ることになったのです。英語に訳すと中国語のものより長くなりますから、こんな分厚さになりました。
 『赤tong(丹彡)丹朱』の初版は1万冊刷りました。探索者叢書の一冊として出したのです。その後1996年の「東三省長編小説奨一等奨」を受賞しました。しかし、この小説の書き方も内容も重いもので、読みやすいものではありません。通俗的な物語性の小説ではないのです。初版は半年くらいで売れてしまいました。お役所的な人民文学出版社の反応は鈍く、一年間に三度の会議を開いても再版の問題を解決することができませんでした。一年以上たってから、3千冊の増刷を決定しました。このような大出版社では一年で増刷できる本は三冊くらいしかありません。
 それから一年後の96年に出た『情愛画廊』は、題名からわかるように、芸術家の愛情を描いた小説です。これは遼寧の春風文藝出版社から出ました。この出版社は93年からは読者の反応を重視するようになっています。その試みとして「布老虎」という叢書を出しています。このシリーズの狙いは純文学と大衆文学の距離を縮めることにあります。ずっと厳粛な文学、純文学に従事してきた作家を選んでこのシリーズに長編作品を書かせたのです。彼らは比較的美しい物語を、流暢な言語で、解りやすく書くように希望しました。その最初の作品は当時もっとも前衛的だった洪峰という若い作家が書いたもので、『苦界』という題名です。これは5万冊以上売れました。その後、鉄凝、趙探、王蒙、梁暁声がこの「布老虎」に参加しました。これらの発行部数は10万以上です。梁暁声の『泯滅』という小説で彼が得た印税は、これまでの彼の作品の中でもっとも高額でした。それから2年たって私の『情愛画廊』が出版されたのですが、初版は6万冊でした。全国の書店の売れ行きがコンピュータで把握できるようになり、それからすぐに、8万冊、10万冊と増刷されました。結局昨年暮れまでの2年間で発行総数は30万冊になりました。つまり中国の長篇小説というのは、このような数の読者を擁している、ということができます。しかもベストセラーには海賊版もつきものですから、それも入れると70万から80万という数になるのです。『廃都』の発行部数が30万でした。私の『金(丹彡)丹朱』と『情愛画廊』は全然異なる作品ですが、後者は私の以前の作品とも随分違っています。それは実験的試みです。文学的な言語で通俗的な物語を書くという試み。それによって読者との関係を拡大するのが目的です。長篇小説の話はここまでにしましょう。
 ただ中国の経済と社会状況がこのまま発展して行けば、マルチメディアの発達によって、10年後には長篇小説は少なくなっているだろうと思います。1979年に「夏」という小説を書いたとき、私は29歳でした。それで若い人たちの気持ちに関心がありました。ですからその頃の「愛的権利」や「北極光」といった作品は、基本的に「新時期」初期の若者たちの内心の渇望のようなものを書いたのです。その後私は若い世代である「知識青年」の生活を描きました。それで私と同年代の当時30歳前後だった人たちの好評を得ました。10年後彼らは40幾つになり、私も若者の生活を描いた小説を書かなくなりました。若い人たちとは距離ができたのです。我々が関心をもっていることも、我々の生活も変化してしまいました。そこで『情愛画廊』を書いたときの選択は、もっと新しい読者を獲得するということで、30歳前後の私より若い人たちを読者として想定しました。その後、書店からのフィードバックでわかったことは、この作品を買ってくれる読者の大半が若い人であるということでした。
張抗抗の代表作
 70年代末に描いた岑朗のような個性の解放の要求は、単に水着の写真とか個人の意見を自由に言いたいとか、男子学生と純粋な関係を保ちたいとか、そのような純粋なものでしかありませんでした。それは70年代末の中国が愛情や個人の自由を獲得したいという情況にあったということです。90年代中期の「情愛画廊」は、同じように若者を描いてはいても、愛情の経過や表現方法、内容は、岑朗の時代とは大きく異なっています。ですから、「情愛画廊」の若者は、岑朗たちが90年代に変化を遂げた姿なのだと言えないでしょうか。そういう風に理解することもできるでしょう。  文芸評論家の白Yが「愛的権利」と「情愛画廊」の比較を行なっています。愛情のあり方や内容にどのような変化が見られるか。表現の仕方にどのような変化が見られるか。どの点に継続性があり、どの点に方向転換があるか。私は岑朗は90年代には別の人物に変わったのだと考えます。ですから、21世紀を迎えるときには、きっともとの岑朗とは別人になっているでしょう。ただ21世紀になっても岑朗は、精神の自由、精神の独立を追求するという点では変わりがありません。
 もう一言、あなたの持ってきたこの本の紹介では、私は「知識青年作家」に分類されていますが、これは荒唐無稽な分類だと思います。20年前にたまたま、そのような境遇にあったということが、その後の作家の身分を規定するのでしょうか。私自身も「知識青年」の生活を描きますが、それは作品のほんの一部分でしかありません。ですから、このような分類は非科学的で道理も何もないものだと思います。あなた気がつきましたか。研究者の考えることは時には奇妙なものがあります。

張抗抗と毛丹青 97年の冬、張宅にて





< < B a c k







Copyright(C)