毛丹青写

『歎異抄』と私
「にっぽん虫の眼紀行」に収録  毛丹青・文/佐竹響・写真撮影

  中国での大学時代に山登りが好きだった私は、いまでもそのときのことをありありと思い出す。安徽省の黄山に登ったときのことだ。細い道の端にひとりの老婆が正座しているのを見かけた私は不思議に思い足を止めた。よく見ると、彼女の前には、茶碗のような器がふたつ並んでいる。器には両方とも豆が入っており、老婆は手を動かしながら、口からは阿弥陀仏と拝む声が漏れている。私の目は、地面に露出した樹根のようなその手が力強くひとつの茶碗からもうひとつへと豆を運んでいるのに惹きつけられた。なんのために豆を移しかえているのか、私はしばらく見ているうちに不思議に思い、彼女に疑問を投げかけた。実を言うと、北京育ちの私にとっては、この光景は異常なものにさえ映った。というのも、毛沢東語録を暗誦した小学校時代、革命の歌ばかり毎朝歌い続けた中学校時代を送った私は、念仏者と出会ったのはこれが初めてだったからだ。

   「豆を数えているのよ、一心不乱のためにね」

   おばあさんは目を開けずに、こう呟きながら、ふたたび阿弥陀仏の声を出した。

   なるほど、何かに集中するためには数を数えるのもひとつの方法なんだ。これは実に名案だと思いながら、その場を離れ、登山を続けた。

   翌日、山から下りてきた私は、また同じ場所を通りかかった。驚いたことに、あの老婆はその場所で昨日と同じように正座していたが、今度は両手を動かしてはおらず、ふたつの茶碗も寂しく見えた。それに、阿弥陀仏を拝む声さえも聞こえなかった。
私は小さな声で聞いてみた。「おばあちゃん、なぜ豆を数えないのですか?阿弥陀仏の声はどこにいったの?」

   彼女は相変わらず目を開けずに呟いた。

   「すべては私のこころの中に動いているのよ、阿弥陀仏もね」

   ……

   あれから15年、1987年の秋 私は留学のために日本の三重大学にやってきた。下宿先は津市の一身田の農家だった。毎朝起きると、近く高田本山の梵鐘が聞こえてきた。好奇心半分で近づいてみると、年輩の念仏者の中に若い人も混じっていたのを今でもはっきりと覚えている。そこではじめて、掲げられていた親鸞聖人の顔を目にした。

   輪郭が突出した親鸞の像は私にある種の迫力でせまってきた。なぜならそれは、中国の仏像や微笑みを絶やさない聖人の姿とは、あまりにも違い過ぎたからであった。聖人と敬仰される方なのに、もっと優しい顔に作ることができなかったのだろうか?

   このように考えながら、歎異抄を開き、真っ先に悪人正機の説に直面した。読めば読むほど、悪を突き刺すような解説が相次ぎ出てくるのに気がついた。この時点での最初の感動そのものは、歎異抄からではなく、もしかすると親鸞聖人の容貌から受けたものだったのかもしれない。

   罪悪深重の自覚、念仏一心不乱、それに決定的な地獄行き等については、歎異抄を通して念仏によって生かされてきた人々の表情もみえたような気がする。私は大学時代から中国の仏教経典を読んできたが、歎異抄への関心はけっしてこれらの読書の延長線ではなく、いままでにない読後感に驚き、ついに中国語訳を思い立つに至った。1994年の春、中国語訳「歎異抄」が北京で出版された後、私は「中日新聞」につぎのように記した。

   日本人はしばしば否定精神に立ち、負の発想から出発します。失敗した結果を予測し、「うまくいかないかもしれませんが…」とか、「私みたいな者では…」と前置きし、自分を愚かで拙い場所に置きます。その根拠に仏教精神が流れているように思います。中国人は「必ずうまくいく。私ならきっとやれる」と常に楽観的です。(「中日新聞」1994.11.20朝刊 日本仏教に学べ)

   「歎異抄」の深奥は出家者だけではなく在家人にとっても、歎異抄という名称だけでさえ念仏の光に満ちているということはよく言われるが、これについて、私からみた「歎異抄」は念仏者の深い感情そのものであると同時に、中国人からみた日本のことでもあるように思う。

   私が大事にしたいもの、それは登山中に会ったおばあさんが教えてくれたこと、そして高田本山に南無阿弥陀仏を唱えた人たち、彼らの世界は国境を超えて、通じ合える喜びと感動そのものである。




(毛丹青の暁天講座を聞く念仏者)



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