毛丹青  

日本人を考える・・・・
繊細な観察、描写不可欠
理詰め「日本人論」に抵抗感


  一つの国に対する理解には、様々な形があってかまわない。政治、経済、貿易に携わるにせよ、近頃参加する機会の多くなった文化交流活動にせよ、それらはいずれも一つの国に対する未知から熟知への過程である。理解する形が異なれば、その結果生ずる感情や認識といったものは違ったものとなる。それが当然のことなのだ。

 しかし、近代において様々な形で存在するはずの日本と中国の相互理解は、度重なる戦争で敵対関係にあったということと、それによって引き起こされた不信感のために、極端に歪められてしまった。このことは、この百年の両国に関する記録に容易に見出すことができる。だからこそ、日中国交回復の両政府声明にある「不正常な状態に終止符を打つことを切望している」(岩波書店「原典中国現代史」)という一言は、深い意味を持ち得たのではないか。

 ひとつの国に対する様々な理解ということを言えば、今年、日本に来てからすでに12回目のお正月を過ごしたこの私は、今年もまた、日本の友人に「ギョーザを食べましたか」という問いかけを新年の挨拶代わりに口にしていた。無意識のうちに、私は記憶に生きる中国の旧正月を頭に思い浮かべたに違いない。時間は、人間が住む空間にも関係を持つ。住み着いた場所に慣れれば慣れるほど、時の速さを感じる一方で、何処かで変え難いものもあることに気が付く。何気なく口にした新年の挨拶。そこに単にギョーザを食べたいという願望ではなく、「ギョーザ」という記号を通して自分から遠ざかった12年前までの中国での日常を温めようとするこころの動きを、私は感じたのである。

このような感触は、「日本という日常」を前提条件に生まれたものである。一個人として、日頃心に留めてきたささやかな事柄に対する気持ち或いは考察を記録していくのも、異文化への理解だと思いたい。このごろ、理屈が先に立つ論説が多い日本人論には、私は抵抗感を持っている。

臨場感を湧きたてるように、微に入り細に渡った描写こそが求められるべきである。仮にこれらの理解が完全に著者個人の私的な印象に基づいていたとしても、そこには印象の芽生え、確立そして成長が期待されるだろう。

日本人論には表情が要る。旧正月になると私のような中国人がすぐ口にする「ギョーザ」と同じように、日本人には「おせち料理」がある。それぞれにちがう表情も見せるが、ごく普通のことである。そして今、ここに書いたことは、私自身が異国の日常を足で歩いて直に確かめたもので、決してじっと頭を抱えて考えついたものはない。v 日本人論のほとんどが、そうした点を欠けていると思う。

  本文の最初に述べた、「一つの国を理解するには様々な形があってよい」という言葉にもどると、一個人としてひとつの国を理解するのも、様々な形のひとつである。さらに付け足せば、日本は私にとっては異国には違いないのだが、私にとっては現実そのものであり、また日常の生活でもある。

「読売新聞」1999.2.3掲載




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