芒克と毛丹青


詩人 芒克を訪ねて 「空間の虚構」
 芒克にとって、空間というものは恐らく表現しにくい内容だろう。というのが今年の春、北京に彼を訪ねたときの僕の印象だった。詩人としての芒克が中国で輝きはじめたのは、実に僕がまた高校生のときだった。そのころは彼にとって言語の覇権に対する苦闘の時代でもあった。彼の詩集「思い」を読んで深く感動したのを覚えている。その後、海外に脱出した詩人楊煉を通じて、何度か彼の動向を聞いていた。去年、10月『今日』が復刻出版されたのをきっかけに芒克は日本を訪問した。大阪での日本中国学会前夜祭に彼は詩の朗読を行ったが、日程が詰まっていたのか、大変お疲れだったようで、声もかなり枯れてしまっていた。その場で僕は彼と挨拶だけを交わし、それ以上には話をすることができなかった。

  後日「朝日新聞」や「すばる」等に取材文が掲載され、彼の現代中国を象徴するような詩人という地位がすでに不動のものになってきているのがそこから読みとれた。ところが、ここ数年、詩を書くことすらしなかった芒克は日常の中に何を考えているだろうか?僕がこのような疑問を持つのは、中国の文化人にとって海外に出かけるということ自体が、彼らにとってある種の非日常ではないかと考えたからである。自分の知らないもうひとつの言語領域において、「私」の存在というものが思いがけず大きなものであるのを見出してたいへん驚いた人は多い。芒克もその中のひとりだった。日本滞在について彼は率直に言った。

  「俺は驚いたよ。自分のことをたいした者じゃないと思っていたのに、人は俺のことを偉いぞと言ってくるんだよね。どう考えても、そんなことないと思いながら、しばらくしたら、俺の感覚も人の言う通りになっちゃうもんだね。東京にいった時、学者の取材を受けたことがあって、俺のことを、俺以上に相手はよく知っているんだ。結局、俺はあまりしゃべらなくても、相手はよく研究していて、よく準備もできていたね。カメラマンも俺の顔に向かって連発して写真を撮ったりして、何だか別の世界みたいだね。これは普通の俺じゃないような気がするけど、まぁ、これでこれを必要とするところもあるから。」

  「普通と言っても、違う解釈もあるだろうと思うけどね、」僕の話を聞くと、芒克は苦笑いながら、ゆっくりと答えた。

  「面倒な解釈はいらないよ。普通というものは、この俺の空間にあるんだ。壁、騒音、アパートに起動不能のエレベーター、そして詩人同士は昔のように集まったりしないのも普通なんだ。実業家の知人もいるが、彼らも元気がなくて、倒産寸前だ。この世の変動についていけないんだろうか?壁に向かって、空間を思うときがあるけど、俺には難しいね。収益がいいから小説を書くだけであって、詩を書く意欲が湧いてこないんだ。日本から帰ると、詩をあらためて書こうかと思うが、まぁ、書く意欲がほんとうに湧いてきたらね」

  何気なくしゃっべた芒克は僕にとって、わかりやすい人間だ。それと同時に詩の空間からは一歩離れた存在でもあったような気がする。彼の詩について大阪外大の是永駿教授は以下のように評価した。(大修館『しにか』98.4.P72)

今日の表紙(黄鋭)   「芒克の詩は生、愛、死を歌い上げる祝祭の世界というべきものであり、人間を最終的に支配する“時間”さえも包みこむ奥行きの深い気宇は迫力に満ちている。」

  芒克の詩に、時間というモチーフがあるのは確かだが、空間に対して、彼はどう考えているだろうか。

  僕の質問を読み取ったかのように、「それは虚構なんだよ」と彼の回答は意外に明瞭だった。




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